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甲斐の虎・武田信玄 最愛の娘【黄梅院】が歩んだ波乱の生涯─戦乱によって婚家を出され、子供たちとも離れ離れに─

歴史を生きた女たちの日本史[第21回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

武田信玄像

 

 武田信玄(たけだしんげん)は、正室・側室を含め6人の女性を娶っている。そのうち産まれた男児は7人、女児は4人を数える。信玄にとって女児はいずれも可愛い存在であったが、特に長女・黄梅院(おうばいいん)は、目に入れても痛くない唯一無二の娘であったらしい。

 

 黄梅院(本名不詳)は、信玄と正室・三条夫人との間に生まれた。天文5年(1536)、三条夫人(さんじょうふじん)が甲斐・武田氏に嫁いで5年目の天文10年に生まれた最初の娘であった。上には信玄の嫡男・武田義信と武田信親(竜芳)の兄2人がいたが、当時23歳の信玄にとっては、初めての娘とあって誕生した際の喜びは大きかった。

 

 三条夫人はこの後、2女・見性院を生む。また側室の油川氏は、3女・於松(後に織田信忠と婚約。信松尼)、4女・於菊(後に上杉景勝の正室)を生んでいる。

 

 黄梅院は、甲府・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の西曲輪で母・三条夫人の雅な公家風文化や躾を受けて育った。母にも大事にされた長女であった。だが、時は戦国時代。いくら可愛い娘であっても、戦国武将・信玄にとっては「手駒の1つ」でもあった。

 

 天文23年(1554)、それぞれに隣国であり、敵対したり、和平したりしてきた甲斐(武田信玄)・駿河(今川義元)・相模(北条氏康)が和平協定である「三国同盟」を結んだ。当然、政略結婚もこの同盟の背後にはあった。 

 

 信玄は最も愛していた長女・黄梅院を「同盟」の証として相模の北条氏康(ほうじょううじやす)の嫡男・氏政(うじまさ)に嫁がせた。黄梅院はまだ12歳という年齢であった。信玄の嫡男・義信は今川義元(いまがわよしもと)の娘を娶り、義元の嫡男・氏真(うじざね)には北条氏康の娘が嫁いで、三角形の縁組みが整ったことになった。

 

 信玄は、黄梅院の婚礼に当たって1万3000人もの警固を含む輿入れ行列を敢行した。「末代まであるまじきこと」と噂されたほどの盛大な婚儀であった。氏政は15歳。幼い夫婦の誕生である。そして、嫁いだ黄梅院が妊娠すると信玄は、その無事な出産を富士吉田の浅間神社に祈願した。娘の出産の無事を祈願するというのも異例のことであった。

 

 こうして黄梅院は氏政との間に、嫡男・氏直(異説もあるが)、2男・氏房、3男・直重、4男・氏定の男児4人を生んだ。政略結婚とはいえ黄梅院にとっては幸せな時期であった。

 

 ところが、この幸せも長続きしなかったのである。駿河の今川義元が桶狭間合戦で織田信長に敗死すると、その嫡男・氏真は弔い合戦さえできない。業を煮やした信玄が駿河を攻め立てた。武田家は、氏真の妹を正室にしていた嫡男・義信が信玄に反旗を翻し、内訌が起きた。結局、義信は自死することになる。同時に信玄の同盟違約を怒った氏真・氏政が黄梅院を離縁して、永禄11年(1568)甲斐に戻した。4人の愛児と引き離された黄梅院は、髪を下ろしてここで「黄梅院」を名乗った。好きな黄梅の花から名付けた。

 

 信玄は最愛の娘の離縁を十分に養生させようと様々な方法を試みたが、わずか半年後の翌年、永禄12年6月他界した。27歳の若さであった。信玄と三条夫人は哀れな長女の死に号泣した。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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