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甲斐の名将・武田信玄に京の名家から嫁いだ姫君【三条夫人】─嫉妬深い悪女ともいわれた息女の実像ははたして⁉─

歴史を生きた女たちの日本史[第19回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

武田信玄像

 

 三条夫人(さんじょうふじん/名前は不明)は権大納言・三条公頼(さんじょうきんより)の息女として京で育った。三条家は、御摂関家に次ぐ七清華家(久我・転法輪三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)のひとつである。その最大の肩書は「太政大臣(だじょうだいじん)」という名門である。その名門に生まれた三条姫の運命が、15歳の時に変わる。

 

 駿河の今川義元(いまがわよしもと)が斡旋する形で、同じ年齢の甲斐・武田晴信(はるのぶ/信玄)に嫁ぐことになったのである。義元の母・寿桂尼(じゅけいに)は権大納言・中御門宣胤(なかのみかどのぶたね)の娘であり、この寿桂尼が実質的には仲介に入った婚礼である。戦国時代、名門の公家であっても生活は厳しく、地方からの支援がなければ食生活でさえ維持できない状況が続いていた。だから、公家たちは伝手を頼っては地方との絆を深めようとしていた。婚姻もそのひとつであった。

 

 それにしても、京都からはるばる山深い甲斐の国に嫁いでくるとは、本人も思わなかったであろう。ただし、三条夫人の姉は管領・細川勝元(ほそかわかつもと)の正室であり、妹は本願寺・顕如(けんにょ)の裏方(正室)である。いわば、この婚姻が将来の信玄による「反信長包囲網」の根回しになったことは確かであった。

 

 嫁いだ翌年、三条夫人は嫡男・武田義信(よしのぶ)を生み、続いて2男・信親(後の竜芳)、さらに長女(後の黄梅院)が生まれた。信玄は遠く都から嫁いできた三条夫人を、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)・西曲輪で大事に遇したという。

 

 様々な歴史小説などでは三条夫人を「嫉妬深い女性」とか、果ては「悪女」とまで書くが、それは虚像である。実は三条夫人は公家の息女らしい気品とおっとりとした性格の女性であって、しかも山深い甲斐国に嫁いで以来、打たれ強くなっていたに過ぎない。

 

 躑躅ヶ崎館は三条夫人とその侍女たちによってもたらされる京風文化で満ち、元来こうした文化を好んだ信玄も和歌を詠み、様々な草子・物語なども読んだ。

 

 この時代、戦国武将の家では世継ぎや子孫を増やすために側室を持つのは当たり前のことであり、三条夫人もそうした事情は重々承知していたはずだった。勝頼の母・諏訪御料人に嫉妬した話などは虚構そのものである。

 

 しかし、成長した義信と夫・信玄の確執(後に義信は自刃)や、今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討ち取られた後の「駿河侵攻」などのゴタゴタから、同盟のために相模の北条氏政に嫁いだ長女・黄梅院が北条家から戻されてすぐに亡くなるなど、悲しみが相次いだこともまた確かであった。

 

 これに先立ち、山口・大内家にいた父・三条公頼が陶晴賢(すえはるかた)の乱に巻き込まれて殺されるという不幸も味わっている。

 

 三条夫人は晩年を悲哀と悲しみの中で暮らし、長女・黄梅院が亡くなった翌年、元亀元年(1570)7月、死亡する。行年50歳であった。後に織田信忠によって火中に消える恵林寺の快川国師は三条夫人を「50年間法輪を転ず、涅槃菊に先立つ紫、金身三条の銀燭霊山の涙、愁殺す西方の一美人(享年50歳の今日まであなたは絶えず釈迦の教えを説いてこられた。重陽の節句を待たずあなたは悟りの世界に行かれた。目映いばかりの三条夫人を思う時、霊山の涙を禁じ得ない。無限の悲しみの中で、西にある京都よりこの甲斐国に来られた美しいあなたの死が無念でなりません)」と荼毘(だび)に付す時の偈(げ)をこう唱えた。

 

 武田信玄をはじめ、誰からも惜しまれるその死であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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