乱世戦国で武功を立て続けた豪傑・前田利家の妻として「加賀百万石」の栄華を築いた前田利長の母として戦国を生き抜いた賢女【芳春院(まつ)】
歴史を生きた女たちの日本史[第16回]
歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。

石川県七尾市にある小丸山城跡に立つ前田利家・まつ夫妻像
名を成して大名にまでなった戦国武将の妻の生涯は夫以上に厳しいものがあった。なかでも、加賀100万石の大名・前田利家の妻・芳春院(ほうしゅんいん/まつ)の生涯ほどつらく厳しいものはなかったであろう。
その生涯の前半は、最初に夫・前田利家が仕えた織田信長の領土拡大に伴って、常に移住し、気の休まる場などなかった。豊臣秀吉の時代には加賀国金沢に落ち着いたものの、関ヶ原合戦のあった慶長5年(1600)から慶長19年(1614)までを今度は徳川家の人質として江戸住まいをした。その人質身分から解放されて加賀・金沢に戻ってその死を迎える71歳までの間は、僅か3年足らずであった。
この芳春院(まつ)の忍耐と決断、勇気と実行こそが、加賀前田家100万石という外様大名第一、屈指の大藩を作り維持する礎となったのである。
まつは、天文16年(1547)7月、尾張国海東郡沖の島(あま市七宝町)に生まれたとされる。土地の伝承によれば「まつの父親は篠原主計という武田家に仕えた武士であり、前田家に養子に迎えられる時には舟で行った」とある。4歳の時に前田家に引き取られたまつは12歳の時に、9歳年上の従兄・前田利家と結婚した。利家との間には、利長・利政のほか、9人の娘(8人ともいう)を生んでいる。のちに3女・麻阿は柴田勝家に人質として差し出され、4女・豪は豊臣秀吉の養女(さらに宇喜多秀家の正室)となる。
利家は最初、信長の家臣団のひとりであり、続いて柴田勝家に従った。越前府中城と七尾城を持っていた利家は、秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳合戦に出陣したものの、秀吉軍の有利を見て戦わずして越前に戻った。そこに敗走した勝家が来ると、まつはもてなした。翌日には秀吉が来て「利家のお陰で勝てた」と言う。
さらに利家と徳川家康に味方する佐々成政(さっさなりまさ)との合戦では「前田家存亡の戦い」として、まつは利家の尻を叩き、貯めて置いた金銀を惜しみもなく与えて合戦に送り出している。この合戦に勝って前田家は、後に100万石の大名になる下地が作られたのである。秀吉の信頼を得た利家は、豊臣政権の北陸の重鎮として君臨する。同時に秀吉政権の5大老筆頭として支えた。周囲の声望も家康よりも高かったという。
慶長3年、秀吉が病死するとその1年後の慶長4年閏3月、利家が秀吉の後を追うように62歳で病死した。まつは剃髪して芳春院となる。
天下人を目指す家康は、利家の後継者・利長が家康暗殺を企てたなどと言い立てて、前田家潰しを画策した。その時にまつは人質に立つ。「武士は家を立てることが大事。私は老年、覚悟も出来ている。この母を利用しなさい」と利長に言って、関ヶ原合戦の3カ月前の5月、江戸に向かった。そして14年間を江戸で徳川の人質として過ごして解放される。金沢に戻ったまつは、ここで3年役を過ごして病死する。波瀾万丈の71年の生涯は、前田家を守り育てる日々の重なりであった。