朝ドラ『あんぱん』徴用された若松次郎はフィリピンの戦いへ? モデル・小松総一郎さんの記録と民間船舶の悲劇的な最後
朝ドラ『あんぱん』外伝no.34
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』、第10週は「生きろ」が放送中だ。夫の若松次郎(演:中島 歩)と共に実家を訪ねたのぶ(演:今田美桜)は、家族の日常を写真に撮って穏やかな時間を過ごす。後日、再び船に戻る次郎は、のぶに自分が乗る船が徴用されて兵や物資の輸送船に改装されたこと、そのため今後は予定通り戻ってこられないであろうことを告白した。今回は、次郎のモデルとなった小松総一郎さんの開戦時までの足跡や、民間船舶の被害などについてとりあげる。
■兵や物資を運ぶために徴用された船と船員たち
若松次郎のモデルとなった小松総一郎さんの太平洋戦争開戦までの状況を整理しておこう。総一郎さんは高知県高知市生まれ。暢さんの6歳年上だった。
昭和5年(1930)11月22日の官報には、秋季に施行された神戸高等商船学校入学試験に合格した生徒の名前が掲載されており、そこに総一郎さんの名前がある。神戸高等商船学校は現在の神戸大学海事科学部にあたり、日本に2校しかなかった高等商船学校のひとつだった。学費が免除されるのはもちろん、生活費まで支給されるとあって志望者も多く、難関校でもあった。
その後、総一郎さんは昭和11年(1936)に機関科を卒業。『神戸高等商船学校一覧』には、同年の卒業生一覧のなかに「小松総一郎 高知」という名前と本籍の記載がある。また、就職先として「日本郵船株式会社」という記載もみられる。当時、卒業生の大半が民間の船舶会社に就職した。
高等商船学校の生徒は、入学と同時に海軍予備生徒となって兵籍に入り、徴兵を免除される。そして、卒業と同時に航海科の生徒は兵科の海軍予備少尉、機関科の生徒は海軍予備機関少尉に任官された。彼らは、有事とあらば召集されることになっていた。
「海技免状原簿登録」によると、総一郎さんは昭和16年(1941)に二等機関士から一等機関士に昇格している。これが記載された官報は、太平洋戦争開戦が間近に迫る同年9月2日付のものだ。
その後、総一郎さんは昭和18年(1943)に徴用された貨物船での輸送任務に就いていたとされるが、戦時下とあってそれまでの動向は定かではない。
さて、太平洋戦争では、多数の民間船舶が徴用されて戦場となっている海を航行した。例を一つ挙げよう。作中で次郎が乗船しているという「ぱたごにあ丸」の設定と同じく、ボンベイ航路における貿易などで活躍していた日本郵船の「りすぼん丸」は、昭和16年(1941)11月に陸軍に徴用された。兵や武器などを輸送するための軍隊輸送船として改装した後、同年12月下旬には、フィリピンの戦いにおけるルソン島ラモン湾への上陸戦に参加。その後、事故による大破と修理を経て、昭和17年(1942)9月27日に約1800人のイギリス兵捕虜らを乗せて香港を出たものの、10月1日に舟山群島沖でアメリカの潜水艦「グルーパー」の雷撃を受け、翌朝沈没した。
ボンベイ航路やカルカッタ航路で就航していた船舶は、太平洋戦争開戦直後から昭和17年(1942)5月まで続いたフィリピンの戦いにおける上陸戦に参加しているケースが多く、これを踏まえれば次郎もフィリピン方面に向かう可能性が高いと言えるかもしれない。
一例としてではあるが、りすぼん丸と同じ日本郵船のT型貨物船(一部は「L型」「M型」とも)で太平洋戦争において徴用された21隻のうち、19隻が英米蘭の潜水艦による雷撃で沈没、1隻が爆撃による大破の後に放棄という悲惨な結末を迎えた。このクラスで終戦時に残って中華民国に接収されたのは「鳥羽丸」のみである。

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