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戦乱の渦に巻き込まれながらも「戦国のシンデレラ」となった数奇な徳川将軍家の最初の御台所【お江】

歴史を生きた女たちの日本史[第6回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

お江(東京都立中央図書館蔵)

 

 お江(ごう)は、浅井長政を父に、織田信長の妹・お市の方を母にもつ「浅井3姉妹」の三女である。父・長政を失った後に母・お市の方が輿入れしたのが、信長の重臣・柴田勝家(しばたかついえ)であった。勝家も羽柴(豊臣)秀吉に滅ぼされ、その際に母も自刃。

 

 3姉妹は秀吉に預けられた。長女・茶々が秀吉の側室になるのはその後のことで、末っ子のお江・13歳は秀吉の命令で天正11年(1583)、尾張・大野6万石の城主・佐治一成(ざじかずなり)に嫁いだ。母親同士が異母姉妹という関係にある従妹同士の結婚であった。

 

 翌年の小牧・長久手合戦(秀吉vs家康)で、佐治一成は、合戦そのものではなく、佐屋川を渡ることが出来ずにいた家康に船を貸して救援した。それを根に持った秀吉は、2年後に佐治家を潰している。無理矢理にお江を離縁させた秀吉は、その後、お江が18歳の時に丹波・亀山城の城主となった羽柴秀勝と再婚させた。お江の意思など無関係の婚姻である。秀勝は、秀吉の姉・ともの二男で、後の関白・秀次の弟である。秀勝との間に娘を生んだお江であったが、秀勝は朝鮮出兵の折りに水が合わず、朝鮮出兵中に病死した。20歳になっていたお江は、再び大坂城に戻った。

 

 すると姉・茶々(淀君)が2度目の懐妊をし、秀頼が生まれる。すると秀吉は秀頼の将来を考えた。またしても政略結婚の具として淡河を使ったのである。文禄4年(1595)9月、お江は実力を持った大老・徳川家康の3男・秀忠と結婚したのである。伏見城での婚儀は壮麗を極めた。お江の生んだ娘は淀君に預けられ、後に公家の九条忠栄に嫁ぐ。お江は23歳になっていた。これで3度目の結婚である。しかも秀忠は、お江よりも6歳年下である。完全なる「姉さん女房」であった。

 

 しかし、夫婦仲は良かった。

 

 結婚2年目に長女・千姫が生まれると、秀吉は「千姫を秀頼の妻にせよ」と命じ、その後に病死した。いわば、お江は常に秀吉と淀君の手の裡にあった。だが、こうした関係が大きく変わる。関ヶ原合戦である。家康の東軍が石田三成の西軍に勝利すると、家康が征夷大将軍になり、天下は豊臣から徳川に移った。お江は、江戸城の女主人になったのである。姉・淀君との立場も逆転したのだった。

 

 そのご、お江は長男・家光(第3代江戸将軍)、二男・忠長はじめ2男5女をもうける。元来が母・お市に似て性格は優しく知的な女性であったお江だが、3度の結婚と6歳年下の夫が2代の征夷大将軍であったことなどから、徐々に気が強くなっていった。夫の秀忠は浮気も出来ないほどの恐妻家となり、お江の尻に敷かれた。

 

 こうして、好きな運命の末に幸運を勝ち取ったお江の地位は揺るぎないものになった。嫡男・家光は乳母の春日局に養育させたが、将軍家の御台所としてその地位は揺るぐことなかった。やがて5女・和子(まさこ)は、第108代・後水尾天皇の内裏に入る。将軍と天皇の母(天皇の場合は義母)になった戦国女性はお江1人である。さらにその孫・興子内親王は明正天皇として女帝になる。寛永3年(1626)9月、お江は江戸城内で逝去する。54歳であった。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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