戦国の荒波の中で誇りを失わずに生きた「浅井三姉妹」の長女【茶々】─織田信長・豊臣秀吉らに翻弄されて─
歴史を生きた女たちの日本史[第5回]
歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。

淀殿が描かれた錦絵(東京都立中央図書館蔵)
戦国時代に数奇な運命を辿った女性は多くいるが、波乱に満ちた人生を送った姉妹(しかも3姉妹)は珍しい存在であろう。父親は織田信長(実質的には秀吉)に滅ぼされた北近江の戦国大名・浅井長政であり、義父は同じく豊臣秀吉に滅ぼされた柴田勝家。母親は、信長の実妹・お市の方である。しかも浅井氏滅亡時には、たった1人の弟は秀吉によって酷い死刑によって斬殺されている。その仇敵ともいえる秀吉の側室(正室ともいう)として、豊臣家の最盛期から最期までを見届けたのが、茶々・淀君であった。なお、浅井3姉妹は、長女・茶々、2女は名家京極家の当主京極高次に嫁いだ初、2代江戸幕府将軍徳川秀忠の正室となった3女・江(ごう)である。
茶々は永禄12年(1569)、北近江の小谷城で生まれた。母のお市の方は、美貌の誉れも高く、「天下布武」を旗印にした織田信長の妹である。浅井家も古くからの名門・佐々木氏に繋がる名家であり、生まれながらにして「誇り高き」育ち方をしたのが、浅井3姉妹であった。特に長女・茶々は、美貌と才知とを母から受け継ぎ、父・長政を幼時から敬愛して過ごしてきた。ところが、伯父・信長と父・長政とが、越前・朝倉氏をめぐる戦いの中で連合が決裂し、長政は朝倉氏に付いたことから信長の織田家と敵対関係に陥る。そして、姉川合戦などの結果、まず朝倉氏が、そして浅井氏も滅亡することになる。
お市の方は、3姉妹を連れて不本意ながら逃げ延び、本能寺の変後には柴田勝家に再嫁する。そしてまた秀吉に攻められた勝家が越前・北ノ庄城で自害すると、お市の方も自害。3姉妹は、秀吉に保護される形になる。最期に当たって母・お市の方は「浅井家・織田家というあなた方の血に流れる誇りを忘れないように。そして凛として生き抜くのです」と、遺言した。それから、3姉妹の長女として、茶々は「凛とした生き方」を目指すのだった。
この時、茶々は15歳、初は14歳、江は11歳であった。秀吉にとって3姉妹は自らにはない「貴種の血筋」であった。そのうえに好色な秀吉がお市の方譲りの美貌を持つ茶々に目を付け、側室にされる。天正17年(1589)、茶々は京都・淀城に住むようになると、「淀殿(淀君)」と呼ばれるようになるやがて、茶々は鶴松(早世)を生み、さらには豊臣秀頼を生む。
こんな話が伝わっている。秀吉の正室・おねとの確執は続いていたが、ある時秀吉の御伽衆であった佐々成政が、越中・立山に咲く世にも珍しい黒百合を1本、おねに献上した。喜んだおねは、大坂城中の女性を集めて披露した。すると淀君は、3日後に花供養と称して黒百合の披露をした。そこには1本どころか数十本の黒百合が並んでいたという。おねと淀君の争いを物語る1幕である。
秀吉が病死し、関ヶ原合戦で西軍が敗れ、徳川家康が征夷大将軍になると、淀君は豊臣家への「謀叛」「反乱」として家康に激怒した。しかし、時代の覇者は明らかに豊臣家から徳川家に移っていた。そして大坂の陣が起きた。大坂城開城を進められても淀君は応じなかった。それが淀君の、浅井・織田の血が流れる者としての「誇り」であった。「凛として生きた、そして凛として死ぬ」。これが淀君の血に恥じない道の採り方であった。元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家は滅び去る。この時、淀君は49歳。秀頼は23歳という死であった。