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人類史上初の原爆投下を招いた「マンハッタン計画」とはなんだったのか?─戦後80年目の真実─

東京大空襲と本土防空戦の真実#01

 

アインシュタイン像

 

■「ドイツより先に原爆開発を」亡命科学者が進言

 

 アメリカが極秘に進めた原爆製造計画は、米陸軍のマンハッタン工兵管区が主導したことから「マンハッタン計画」と呼ばれる。計画の発端は、レオ・ジラードやアインシュタインなどドイツからアメリカに亡命したユダヤ系の科学者たちによる進言だった。

 

 彼らはドイツによる原爆開発の可能性を危惧し、1939年、アメリカ政府にウラン研究の推進を促した。ルーズベルト米大統領はアインシュタインが署名した書簡を受け、亡命科学者を中心とするウラニウム諮問委員会を設置した。

 

 一方、イギリスでも1940年にウラニウムを爆弾に利用する可能性について検討するMAUD委員会が設置された。検討の結果、イギリスから「原爆開発は可能」とする報告書がアメリカに届くと、ルーズベルトは原爆開発に本格的に動き出した。

 

 新たに科学研究会開発局(OSRD)が設立され、ウラニウム諮問委員会はその一部門となった。

 

 1942年8月には陸軍による原爆製造計画(暗号名「マンハッタン計画」)が発足し、グローブス大佐が最高責任者に選ばれた。また、同年12月にはシカゴ大学の暗号名「冶金研究所」で、原子核分裂の連鎖反応実験に成功した。

 

 これを受けて、ワシントン州ハンフォードに大規模な原子炉がつくられ、プルトニウムの生産、精製が行われた。プルトニウムは長崎で使われる原爆で使用される。

 

 広島に投下されたのは、ウラン型原爆だが、天然ウランには原爆の原料として使えるウラン235がわずか0・7パーセントしか含まれていない。そのため、天然ウランを濃縮してウラン235の比率を高めて分離する必要がある。ウランの濃縮はテネシー州オークリッジなどで行われた。

 

 米軍は2種類の原爆開発を急いだが、その生産過程には大規模な工場が必要で、民間の協力が不可欠だった。原爆の開発は政府、軍、科学者、産業界を総動員する巨大軍事開発事業として進められた。

 

■20億ドル以上をかけて1945年7月に完成

 

 1943年春、ニューメキシコ州ロスアラモス科学研究所が設立された。後に「原爆の父」と呼ばれることになるカリフォルニア大学のオッペンハイマーが所長となり、精製された核分裂物質をどのように爆弾として構成するかという原爆開発の核心的な技術問題を扱う研究が始められた。

 

「マンハッタン計画」では、核分裂から生じる放射能物質を兵器として使用することも研究された。プルトニウムの人体注射やエックス線の全身照射などといった放射能の人体実験も行われたという。

 

 1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで史上初のプルトニウム原爆の爆発実験に成功した。マンハッタン計画は3年の歳月と20億ドル以上の経費をかけて原爆を完成させたのだった。

 

 戦後、陸軍が管理していた原爆製造のすべての生産施設は原子力委員会に引き継がれ、現在も核兵器の研究、開発、製造を続けている。「マンハッタン計画」は、今日に続く軍産複合体の原形ともいえる国家軍事プロジェクトだった。

 

監修・文/水島吉隆

『歴史人』2025年4月号『東京大空襲と本土防空戦の真実』より

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