日本本土初空襲の殊勲艦『ホーネット』の栄光と最期 ドゥーリトル空襲とその後の戦い
■初の日本本土空襲という極秘任務を背負った航空母艦
戦間期、アメリカ海軍は海軍軍縮条約に準拠した「条約型空母」として、「ヨークタウン」級空母のネームシップ「ヨークタウン」と2番艦「エンタープライズ」の2隻を建造したが、同条約の失効にともない、急遽新しい空母を建造するためにこの「ヨークタウン」級に小改修を施した「ホーネット」を建造した。そのため、小改修が施されているとはいえ、本艦は同級の3番艦として数えられるのが一般的である。
「ホーネット」は1940年12月14日にニューポート・ニューズ造船所にて、海軍長官フランク・ノックスの夫人であるアーニー・リード・ノックスに祝福されて進水。1941年10月20日に就役した。
日本海軍によるパールハーバー攻撃で、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発すると、アメリカを筆頭に連合軍は緒戦で敗退を続け、戦意の低下が心配された。そこでアメリカは、日本本土に対する爆撃を計画する。
しかし当時、日本に向けて爆撃機を出撃させられる範囲にアメリカ軍の航空基地は存在しなかった。だが双発爆撃機のノースアメリカンB-25ミッチェルなら、着艦は困難だが空母の飛行甲板から発艦することができた。
そこで、ジェームズ・ハロルド“ジミー”ドゥーリトル陸軍中佐を隊長とするB-25装備のドゥーリトル襲撃隊が編成された。その任務は、日本近海に接近した空母からB-25で発艦し、日本本土を爆撃した後に中国へと飛び抜けて蒋介石軍支配地域に着陸するという「片道出撃」であった。
16機のB-25を搭載した「ホーネット」は、1942年4月2日にサンフランシスコを出港。双発のB-25は着艦できないのでクレーンで積み込み、大きいため格納庫甲板には納まらないので飛行甲板上に固定された。
4月13日、パールハーバーからやって来た護衛の空母「エンタープライズ」などと合同。同月18日に日本近海に近づいた「ホーネット」はドゥーリトル襲撃隊の16機を発艦させ、各機は東京、神奈川、千葉、茨城、新潟、愛知、兵庫にそれぞれ爆弾を投下。日本中が混乱したものの被害は軽微だった。
一方、アメリカでは爆撃成功は発表されたが、当初は空母からの発艦という事実を秘匿する必要性から、時のローズヴェルト大統領は記者の質問に対して「B-25はシャングリラから出撃した」と答えた。この地名は、1933年に発表されたジェームズ・ヒルトンのベストセラー小説『失われた地平線』に出てくる、ヒマラヤ付近の架空の地名である。
そしてこのエピソードにちなみ、1944年9月に就役した「エセックス」級空母の1隻が「シャングリラ」と命名されている。
かくして歴史に残る日本本土初空襲にかかわった殊勲艦「ホーネット」だったが、1942年10月27日、南太平洋海戦において日本艦上機の攻撃を受けて大破。味方の手による海没処分は奏功せず、放棄されて漂流中を日本側が発見して駆逐艦が雷撃を実施。その姿を南溟の碧淵に没したのであった。

ドゥーリトル隊を出撃させる「ホーネット」