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僧侶でありながら今川家を支え、名将・今川義元を育て上げた軍師【太原雪斎】

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第35回】

 

今川義元(東京都立中央図書館蔵)

 

 今川義元の「軍師」とも「執権」ともいわれる太原崇孚(すうふ)雪斎は、善得寺の相であったが。京の建仁寺で18年間修行し、後に妙心寺の高僧になる。だが、その出自は今川家の譜代武士であった。父は庵原城主・庵原左衛門尉、母は興津横山城主・興津藤兵衛の娘であり、2人ともに今川家を支える重臣であった。修業時代から「天才」と呼ばれていた雪斎は、善得寺に幼い今川義元(僧名・梅岳承芳)を預かると、その養育係となった経過もあった。

 

 義元には兄・今川氏輝がいて、父・今川氏親が亡くなった後の今川家をこの兄が継承した。だが、天文5年(1536)、当主になった氏輝が変死すると、その後継を巡って今川家に内訌が起きた。氏輝には弟2人がいた。1人は義元であり、もう1人はやはり僧籍に入っていた玄好恵探であった。義元の母は、後に「尼御代」と呼ばれるようになる寿桂尼であり、恵探の母は、氏親の側室・福島氏であった。

 

 この両者が、今川家の後継を巡って争ったのが「花倉の乱」といわれる内訌である。寿桂尼は、義元を今川家の当主の座に就かせるために京都から呼び戻してあった雪斎を軍師として活用した。恵探には、今川家の重臣であり、猛将として名高い福島正成が支援した。

 

 内訌は義元・雪斎側が勝利を収め、内訌は収拾された。雪斎は、当主となった義元の政治・軍事の最高顧問的な立場に着いた。義元も寿桂尼も、雪斎には大きな信頼を寄せていたからこの後の今川家は、父・氏親、兄・氏輝の時代よりも大きく飛躍する。

 

 天文15年(1546)から開始された三河侵略作戦は、織田信秀(信長の父)を完全に押さえ込み、東三河を手に入れ、その和睦条件として三河・松平広忠の嫡子・竹千代(後の徳川家康)を人質として今川家が預かることになった。家康は、人質時代に雪斎から学問・教養・軍事、さらには人間としてのあり方までを学んでいる。

 

 この時期、東の隣国である相模・北条氏康とは対立が続いていたが、北の隣国である甲斐・武田信玄(晴信)とは、友好関係が形成されていた。この関係をさらに強靱にするために、信玄の嫡男・義信と義元の長女との婚姻を行った。「甲駿同盟」である。氏康は、関東で古河公方・足利氏や上杉謙信を敵にして戦っており、不利な状況が続いていた。信玄は氏康とも「甲相同盟」を結んでいたが、こうした関係に、雪斎は楔を打ち込む。義元の嫡男・氏真と氏康の娘との結婚である。

 

 これが後に「善得寺の会盟(実際には、信玄・氏康・義元は一堂に会してはいない)」と呼ばれる甲・相・駿の「三国同盟」になる。

 

 雪斎の外交手腕が遺憾なく発揮された同盟であった。弘治元年(1555)、雪斎は59歳の寿命を終える。すると、義元は2万5千の大軍を率いて上洛の途に着き、その途中の桶狭間で信長に討ち取られる。雪斎が健在でその指揮を取っていたら、と義元にも今川家にも悔やまれる出来事であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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