英雄・ヤマトタケルの「名の由来」と皇太子であったのに「天皇になれなかった」理由とは⁉
「古事記と日本書紀」#2
日本人ならばだれしもがその名を聞いたことある「ヤマトタケル」。ここでは彼の名の由来と皇太子として生まれながら天皇になれなかった理由について迫る。
■残酷な殺し方をすることでそう呼ばれた「ヤマトタケル」

日本武尊
明治時代に勃興したロマン主義を代表する洋画家・青木繁による油彩で明治39年(1906)のもの。青木は『古事記』を愛読しており、古代神話をモチーフにした作品を多く手掛けた。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
ヤマトタケルは、一般的には「大和の勇猛な人」と解されているが、ヤマトタケルは敵に対して大変残酷な殺し方をする。そのような殺され方をした相手から与えられた名前が「ヤマトタケル」なのだ。そこには「ヤマトの猛々しい人」という意味が込められている。
その名は、父から熊襲征討を命じられた際に殺害されたクマソタケルの兄弟の弟から奉られた名前である。その後、出雲に立ち寄りイズモタケルをだまし討ちにして帰還した。ところが今度は天皇から東方十二道の征討を命じられる。ヤマトタケルは、伊勢の地で「天皇は私に死ねとおっしゃっているのか」と嘆く。これに対し、叔母のヤマトヒメは、クサナギノツルギを与えヤマトタケルを送り出す。
この後、ヤマトタケルは相模(あるいは駿河)において火攻めに遭い、クサナギノツルギ(草薙剣)で切り抜けた。しかし、三浦半島から房総半島に向けて走水(馳水、浦賀水道)横断時に海の神の怒りをかい最愛の妻オトタチバナヒメを失って、「あづまはや」と嘆く。「あづま」という地名の由来である。
さらに近江のイブキヤマ(伊賦岐山、五十葺山)で山の神を軽んじたことが命取りとなり、病にとりつかれ伊勢国・能褒野(のぼの)で死去し、白鳥となって飛び立つ。
■海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかった
ヤマトタケルの生涯をざっとまとめると以上のようになるが、最後に太子でありながら何故、最終的に天皇になれなかったのかといった点を考えてみたい。
『古事記・日本書紀』によれば、ヤマトタケルを苦しめたのは海の神と山の神である。記には、倭国の王の統治理念として「食国之政」と並んで「山海之政」という言葉が登場する。「山海之政」とは山の神や海の神との調和のもとに山野河海を統治していこうとする理念である。
ヤマトタケルは、海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかったというのが『古事記・日本書紀』の主張である。モデルは、山の民や海の民を十分に支配できなかった王族将軍である。
監修・文/森田喜久男