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聖徳太子は聖武天皇のためにつくられた理想の皇太子像だった!?【日本古代史ミステリー】

今月の歴史人 Part.4


聖徳太子に関しては、さまざまな面でさまざま説が飛び交っている。そのひとつ「理想の皇太子」説についてここでは紹介する。


 

■聖徳太子の時代には皇太子の制度は未成立だった

 

聖徳太子(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 

 聖徳太子の「太子」とは、言うまでもなく「皇太子」のことである。『日本書紀』には、推古女帝の即位(592)の翌年4月に厩戸皇子が「皇太子」に立てられ、同時に「摂政(せっしょう)」という役職に任じられたと記されている。だが、当時は皇太子という制度はまだ存在しなかった。皇太子制度が中国から移入されたのは厩戸皇子の時代からおよそ1世紀も後のことで、それは天武(てんむ)天皇と持統(じとう)天皇によって編纂された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行(689)にともなうものであった。

 

 厩戸皇子に皇位継承権が認められていたことは明らかであるが、彼は推古天皇の次の天皇になることが確約されていたわけではなく、あくまで即位資格を認められた有力皇族の一人にすぎなかった。なお、「摂政」の地位も平安時代の摂政・関白と同一視すべきではない。それは『日本書紀』において厩戸皇子に「政を録摂させた(国政を統括させた)」と記されているもので、彼が推古天皇の執政の輔佐(ほさ)にあたったことを意味しているのである。

 

■聖徳太子は聖武天皇のためにつくられた理想の皇太子像

 

『日本書紀』のなかの聖徳太子が当時実在しなかった皇太子の地位にあったとされたのは一体どうしてであろうか。かつて大山誠一氏は、聖徳太子は律令国家の頂点に立つ天皇の理想像として作られたと考えた。だが、実際には即位することがなかった厩戸皇子を借りて天皇のあるべき姿を示そうとしたとはおよそ考えがたい。『日本書紀』が、その編纂の最終段階において皇太子の地位にあった首皇子(聖武天皇)の即位の正当性を歴史的に証明するために書かれたことを踏まえれば、『日本書紀』のなかの聖徳太子は皇太子のあるべき姿を示すために作り出されたと考えるのが妥当であろう。中国において皇太子は「皇帝の長男」を意味し、我が国には馴染みの乏しい制度であった。だから、皇太子の理想像を実在の人物である厩戸皇子をモデルにして示す必要があったのである。

 

監修・文/遠山美都男

歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より

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