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謎に包まれている古代の女王「卑弥呼」の死因とは何だったのか⁉

今月の歴史人 Part.2


古代の日本で鬼道を駆使して政治を行い、活躍した卑弥呼。彼女の死について、今もなお様々な説が飛び交っている。


 

■果たして卑弥呼は殺害されたのか?

 

塚原古墳公園に立つ卑弥呼の石像
塚原古墳公園(熊本市南区城南町塚)に建てられた卑弥呼像。一説によれば卑弥呼の呪力の衰えが皆既日食現象を呼び、民衆に殺害されたとする説もある。

 

 卑弥呼について『魏志』倭人伝は年齢を「長大」と表現している。この「長大」をどのように解釈するかというと、年をとった女性とする説と成人女性とする説とがある。また、30歳半ばすぎとみる説もある。つまり、卑弥呼が邪馬台国連合の盟主とされた年齢については、あまり若くはなかったが具体的には不明ということになろう。

 

 それでは、亡くなったのはいつかというと、有力とされるのは247年もしくは248年頃という説である。この両年を支持する根拠のひとつとして、両年に日食(にっしょく)が起きているというのである。卑弥呼は、これら2度にわたる天変地異(てんぺんちい)によって、周囲の人びとから巫女としての能力を疑われ、最終的に死へと追いこまれたと考えるのである。

 

 しかし、一方では248年には日食は起きていないともいわれており、検討の余地が残されている。

 

 また、狗奴国(くなのくに)との戦闘を原因に考える説もある。邪馬台国の南に男王の狗奴国があり、両国は敵対していた。卑弥呼が魏へ遣使したのもこのことが原因であり、魏から正統性を認めてもらい、精神的な支柱を得ようとしたのではないかというのである。しかし、狗奴国との闘いに苦戦していた邪馬台国の状況をみて、魏からの使者である張政(ちょうせい)は、新しい王を立てることを要求し、その結果、卑弥呼は死に追いこまれたとする説だ。さらに、狗奴国との争いの最中に、戦死したのではと考える説も存在する。

 

 いずれにしても、『魏志』倭人伝には、卑弥呼の死に関しては「以死」としか記されておらず、詳細は不明である。ごく自然にとらえるならば、年齢的なものからくる病死もしくは老衰死とするのが最も穏当な解釈といえよう。しかし、『魏志』倭人伝のあまりにもあっさりとした書きぶりから、さまざまな死因が憶測(おくそく)されているのである。

 

監修・文/瀧音能之

歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より

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