吉野ヶ里遺跡の石棺墓調査と邪馬台国論争の行方
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #084
今更ながら、邪馬台国がどこにあったのかという話題は実に面白い。専門家や研究者だけでなく一般の歴史ファンも参加できる推理合戦は何とも貴重なものだ。しかしながら、弥生時代後期の遺跡や墳墓の調査があると、すぐに邪馬台国の卑弥呼に結び付けられるのはいかがなものか?

吉野ヶ里遺跡に復元された、環濠集落内部。発掘調査によってわかった、弥生時代当時の暮らしを伝える。(撮影:柏木宏之)
■遂に卑弥呼の墓を発見か!? 世間を賑わせた発掘ニュース
佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は広大な範囲を弥生遺跡として保存、調査、研究がされていて実に貴重な遺跡です。その謎のエリアと呼ばれていた一段高い場所の日吉(ひよし)神社跡を発掘して出てきたのが、怪しげな石棺墓(せっかんぼ)でした。
多くの吉野ヶ里墓群は、甕棺墓(かめかんぼ)という本州では見られない大型の壺を使った棺でした。
しかし弥生時代も後期になってくると甕棺墓形式から、平たい石で囲った墓穴を棺として、同じくタイル状の石で蓋をして直葬する石棺墓形式に移行します。
この形式と葬儀の模様は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼ばれる資料にも記録されています。
「其死有棺無槨、封土作冢。始死停喪十余日、当時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。」
(邪馬台国では人が死ぬと石棺を直接土に埋めて塚を作る。十日あまり喪主は大いに泣いて喪に服し、肉食を避ける。弔問の客は歌ったり舞ったりして酒宴を行う。)
墓の様子はまさに今回発掘された石棺墓に酷似していることがわかりますし、葬儀の模様もリアルにわかります。ですから、今回吉野ヶ里遺跡で調査された石棺墓は弥生時代後期のもので間違いないといえます。その時代が、まあまあ『魏志倭人伝』に残されている邪馬台国・卑弥呼の時代であることから、流入している土をすべて取り除いたら、卑弥呼を示す『親魏倭王(しんぎわおう)』の金印が出てくるのではないか! と非常に期待をした人も多かったわけです。

吉野ヶ里遺跡全体の地図。赤で囲った部分が、今回石棺墓が発掘されたエリア。
© OpenStreetMap contributors ※発掘エリアの図示/柏木宏之
たしかに吉野ヶ里遺跡は現在までの調査の結果『魏志倭人伝』に描かれている邪馬台国の景色によく合っていると思います。つまり、深い濠(ほり)が集落を囲い、さらに頑丈な柵で囲み、物見櫓(ものみやぐら)が居丈高にそびえ建ち、大型建物がいくつも再現されています。これらの風景はまさに後期弥生時代の邪馬台国のようです。
その上今回の石棺墓は、蓋石(ふたいし)に見たこともない記号のような線刻がいくつも描かれていました。その理由はさっぱりわかりませんが、謎の線刻は強力な霊力を持った巫女(みこ)を埋葬したからではないのか? また、石棺墓長が約180cmと大きいにもかかわらず内径が約36cmと狭いことから、被葬者は男性ではなく女性であろう。……つまりあれは卑弥呼の墓なのではないか! と、期待されたのは自然かもしれません。

山口県下関市・土井ヶ浜弥生遺跡の石棺墓に関するパネル展示より。
撮影:柏木宏之
■学術調査の本質 マスコミの過熱報道の如何を問う
マスコミは歴史ファンの夢と期待の声でフィーバーぶりを報道しますが、マスコミ側まで一緒になって騒ぐのはいかがなものかと私は常々思っています。例えば、奈良県桜井市の大市墓(おおいちぼ/箸墓古墳の正式な墳墓名)を紹介するときに、枕詞(まくらことば)のように「邪馬台国の卑弥呼の墓だという説もある……」とするのも軽薄な話です。
発掘調査は学術調査ですし、考古学という学問は出てきた「物」を真摯に研究して、わからないことはわからない、しかしこうとしか考えられないという結論を合理的かつ論理的に解答する学問です。そこに邪馬台国や卑弥呼が入り込む余地は全くありません。あるとすれば、決定的な証拠が発見されるか、研究結果が出てからの話で、発掘中や研究中にそういう予断が入り込むことがあってはならないのです。
この後明らかになってくるのは、使われている石材は何なのか? またどこの産なのか? 石棺内部の赤色顔料は一種類なのか? 底の土周辺には脂肪酸などの有機物成分が残っていたのか? 蓋石の謎の線刻記号が一枚だけ石棺内側にあったのはなぜか? 取り除いた流入土にはどんな花粉やそのほかの生物由来成分が含まれているのか? そして、まだ発掘されていない残りの4割の区域に何があるのか?……etc.
これらを踏まえて、さらに吉野ヶ里遺跡全体の中でのこの石棺墓を合理的に評価しなければなりません。このように、やらなければならない事は山積みですから、調査研究当事者は卑弥呼騒動にかかわっている暇はないのです。