卑弥呼とは一体誰なのか?─有力な候補者3人─【日本古代史ミステリー】
今月の歴史人 Part.4
日本古代史上、最も有名な人物の1人として卑弥呼。卑弥呼は日本側の史料でいうと誰に相当するのかということが長年いわれてきた。
■古事記・日本書紀にその名が残っていない卑弥呼

卑弥呼像。
日本古代史上、最も有名な人物の1人として卑弥呼(ひみこ)をあげることに異をとなえる人はあまりいないであろう。しかし、卑弥呼がどんな人物かを知ることは大変、難しい。その理由は、何よりも『古事記』や『日本書紀』といった日本側の基本史料に、卑弥呼に関する記述が残っていないということである。わたしたちが、卑弥呼について知ることができるのは、中国側の史料である『魏志』倭人伝によってである。
このことから、卑弥呼は日本側の史料でいうと誰に相当するのかということがいわれてきた。たとえば、天照大神(あまてらすおおみかみ)であるとか、11代天皇とされる垂仁(すいにん)天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのこみこと)とかが、候補にあげられている。そのなかでもとりわけ有力と考えられるのが、神功皇后(じんぐうこうごう)と倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の2人である。
神功皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后であり、応神(おうじん)天皇の母とされる女性である。仲哀が熊襲平定をおこなおうとした際、神がかった神功皇后は、これをいさめて新羅(しらぎ)征討を進言する。しかし、仲哀は熊襲平定を強行し、結局失敗してしまう。このあと、神功皇后は朝鮮半島へ出兵し三韓を攻略するのである。このように、神功皇后には巫女的な要素が強くみられることの他に、『日本書紀』の神功皇后の条に3回、邪馬台国に関連した記事がみられる。まず、神功皇后摂政39年条に、『魏志』の記事として倭の女王が大夫の難斗(升)米らを派遣したとある。また、同40年条には、やはり、『魏志』の記事として、魏が使節を遣し詔書と印綬を与えたとあり、同43年条にも魏からの使節派遣のことがみえる。
これらのことから『日本書紀』の編者は神功皇后を卑弥呼と考えていたともいえる。しかし、一方では、神功皇后は非実在の人物と考えられており、この立場からすると卑弥呼が神功皇后とする説は成立しないことになる。

卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳
もう1人の有力候補は、倭迹々日百襲姫命であり、崇神天皇によって各地に派遣された四道将軍のひとりである大彦命(おおびこのみこと)がもたらした少女の歌をきいて、武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知したりした。巫女としての呪力が強い女性として知られ、彼女の墓は箸墓古墳とされ、昼は人が造り、夜は神が造ると『日本書紀』は記している。
卑弥呼に相当する有力候補として2人の女性をとりあげてみたが、いずれの人物も邪馬台国が畿内にあった場合ということになるだろう。邪馬台国が北部九州に存在していたという立場をとれば、当然のことながら、また、異なった考えが出てくるだろう。
監修・文/瀧音能之