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江戸の囲碁界の頂点をめぐった名人争奪戦「本因坊vs因碩」【大江戸かわら版】

大江戸かわら版【第3回】


江戸時代には、現在の新聞と同様に世の中の出来事を伝える「かわら版」があった。ニュース報道ともいえるものだが、一般民衆はこのかわら版で、様々な出来事・事件を知った。徳川家康が江戸を開いて以来の「かわら版」的な出来事・事件を取り上げた。第3回は囲碁の名人争奪戦について。


碁盤・将棋盤・双六盤が楽しめるセットで、写真は碁盤バージョン。三つの遊びは、江戸時代のゲームの一種で、双六盤は武家や富裕層の婚礼の調度品としても用いられた。
「竹菱葵紋散蒔絵双六盤」 東京国立博物館、出典/ColBase

 江戸のかわら版は「ライバル因縁の対決」とか「宿命の戦い」が好きなようだ。というのも、江戸っ子が望むニュースをいち早く扱うのが「かわら版」だったからだ。大相撲の取り組みもだが、囲碁や将棋の名人位争奪も、江戸っ子には興味の的だった。

 

 名人位は、実力を賭けた戦いだが、同時に指南版争いでもあり、囲碁の世界を支配できる権限につながる地位でもあったからだ。名人位に就けば、権威・権力を得られる。そして棋士すべての昇段についても口出しが出来て、免状の発行も行えた。この発行免除を持つ者は、関所までも「ご免」で通過できた。将軍の指南役という権威は、それほどの立場であった。だからこそ、この1つの座を巡って熾烈な戦いが展開されたのだった。

 

 江戸時代、囲碁の家元には本因坊(ほんいんぼう)家・井上家(玄庵因碩家)・安井家・林家の4家があった。名人碁所(名人位)に就くには、この4家のうちの3家の共同推薦を受けるか、囲碁による争いによって勝つか、幕府から直接に指名されるか、の方法があった。

 

 囲碁の争いでは、10番か20番を打たなければならず、時間がかかるので、この方法は好まれなかった。しかし幕府の指名に期待するには、少なくとも準名人(8段)の位にいなければならなかった。

 

 4家の代表がそれぞれ自分の思惑で動き、まるで戦国時代の武将の争いのように、裏取引をして相手をごまかし、あるいは表立って担当役所であった寺社奉行所を巻き込んで、駆け引きをした。その様子が江戸っ子には、面白かったはずである。

 

 この4家の中でも、本因坊家と井上家(玄庵因碩)は特に名人位を目指すために、様々な画策に走った。それに利用されたのが、安井家と林家であった。本因坊丈和ほんいんぼうじょうわ)と玄庵因碩(げんなんいんせき)の確執は、文政から天保年間(1818~43)に掛けてのことであった。

 

 2人は名人位を目指しながらも、争い碁を避けようとした。だが、その激しい駆け引きは最後には争い碁での決着となった。

 

 騙し騙されながら、名人位の座を虎視眈々と狙う2人に、石見浜田藩の江戸家老・岡田頼母(おかだたのぼ/本人は囲碁6男という実力者)は、本因坊・玄庵の争い碁を見たいと思い、老中の座にあった藩主・松平周防守康任(やすとう)を動かして「松平囲碁会」という名目の囲碁大会を開いた。岡田は、玄庵因碩を贔屓(ひいき)にしていた。

 

 ところが因碩は尻込みしてしまい、代理に弟子の赤星因徹(あかぼしいんてつ)に打たせた。因徹は26歳、本因坊丈和(は49歳。天保6年7月19日からの対決は4日間行われ、結局本因坊家の丈和が勝った。因徹は痛恨のあまり碁盤に崩れて血を吐き、間もなく死んだ。

 

 4年後の天保10年11月29日の争い碁には、本因坊側から弟子の土屋秀和(しゅうわ/21歳)が出場し、今度は因碩(43歳)が応じた。囲碁は10日間打ち継がれ、ついに因碩が4目負けた。しかもこの間に2度も吐血している。因碩はまたしても敗れたのであった。

 

「かわら版」は「これにて本因坊の勝利」と記した。 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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