宮本武蔵と戦った吉岡流の家・剣法家の当主<吉岡憲法>
【日本剣豪列伝】剣をもって生き、闘い抜いた男たち<第10回>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第10回は吉岡流の家・憲法家の当主である吉岡憲法(よしおかけんぼう)。

「 太刀 銘 長光(大般若長光)」 たち めい ながみつ(だいはんにゃながみつ)
長光をはじめとした長船派(おさふねは)と呼ばれる刀工集団は、16世紀まで日本最大の刀剣の流派として隆盛を誇った。この太刀は長光の代表作のひとつで、室町時代にこの太刀が、貫(かん)という価値などをあらわす単位にして600貫と、大変高いものとされていたことから、全部で600巻の大般若経に結び付けて「大般若長光」と呼ばれた。
「東京国立博物館蔵、出典/ColBase
吉岡憲法は、吉川英治の小説『宮本武蔵』で知られる。「吉岡憲法」というのは、ただ1人でなく何人もが京都で吉岡流の家の当主を名乗った通称・字(あだな)である。
吉岡流というのは、鬼一法眼(きいちほうげん)が開祖となった京八流(きょうはちりゅう)の流派を汲むといわれるが、一方で塚原卜伝(つかはらぼくでん)の新当流の流れを汲んでいるともされる。最初に「憲法」を名乗ったのは誰か不明ながら、天文年間(1532~1555)に吉岡直元という当主がいた。直元は「憲法」を称した。この憲法直元は、足利12代将軍・義晴(よしはる)の兵法指南として仕え、何度か武勇を上げ、同時に「吉岡流の憲法」として武名・剣名も上げた。
この直元に吉岡直光(なおみつ)という弟がいて、直元の後を継いで「憲法」を名乗った。兄同様に足利将軍家の兵法指南として京に君臨し、道場を兵法所と呼び、今出川に居を定めた。「憲法」という通称について『吉岡伝』という書物には「吉岡家はもともと古(いにしえ)を好み、義を守り、正直を法律として建ってきた家であるので、憲法の家と呼ばれた」とある。「憲法」イコール「剣法」でもあった。
吉岡直光の子どもに又三郎直賢(なおかた)がいた。父・直光をしのぐ剣の名人であった。直賢もまた15代将軍・義昭の兵法指南であった。直賢については、宮本武蔵の父・無二斎(むにさい)と立ち合ったともいわれる。
この直賢に男子2人があった。兄は源左衛門直綱(なおつな)、弟を又市郎直重(なおしげ)という。どうやら、この又市郎直重が吉川英治の小説『宮本武蔵』の中で吉岡伝七郎として登場する人物に比定されるようである。兄弟は2人共に優れた遣い手であったようだが、特に弟・直重が勇猛果敢で知られた。慶長8年(1604)8月に、東山八坂で天流の剣豪・朝山三徳と立ち合い、一撃で朝山の脳を砕いたと伝わる。また、関東からやって来た新当流・鹿島林斎とも闘い、わずかな隙に付け入って倒した。
先の『吉岡伝』によれば、武藏と立ち合ったのは当時25、6歳の兄・源左衛門直綱であった。武藏は柿色の鉢巻き、直綱は白の鉢巻きで相対した。優劣は五分五分で、2人の剣先がお互いの額に当たって血が滲み出たという。この試合は、京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)が見分として立ち合っており、互いに自分の勝ちを主張したが、血の滲み具合から見ても優劣付けがたく「相打ち」という結果になった。
吉川著『武藏』では、兄・清十郎は足を打って切り落とされ、弟・伝七郎は斬り殺され、末弟は一乗寺下り松で討ち果たされることになり、吉岡家は断絶したことになっている。しかし、吉岡家には清十郎、伝七郎、末弟・某という人物はいない。
吉岡家の事実は、吉岡家の兄弟の従兄弟・清次郎重賢(きよじろうしげかた)という男が京都所司代の役人を斬ったことから断絶とされた。蟄居した兄弟は後に明国人から墨の染色を教わり、これに工夫を凝らして染め屋となった。これが「憲法染め」と呼ばれ繁盛し、吉岡憲法の家は続いた。兄弟は天寿を全うしている。