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世界最初の「たばこ禁止令」と呉服屋「白木屋」の大もうけ【大江戸かわら版】

大江戸かわら版【第2回】


江戸時代には、現在の新聞と同様に世の中の出来事を伝える「かわら版」があった。ニュース報道ともいえるものだが、一般民衆はこのかわら版で、様々な出来事・事件を知った。徳川家康(とくがわいえやす)が江戸を開いて以来の「かわら版」的な出来事・事件を取り上げた。第2回は、たばこ禁止令と白木屋の大もうけの実態について。


江戸時代の喫煙者には、刻み煙草を入れる煙草入れと、煙管、煙管入れの3点が必需品だった。 写真の煙草皮革製の煙草入れは、江戸の伊達と粋の象徴だとされていた。 「煙管・煙草入」 東京国立博物館蔵、出典/ColBase

 たばこがヨーロッパの宣教師などによって、日本に持ち込まれたのは天正年間(1573~91)の初頭の頃であった。室町幕府が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされ、本能寺の変を経て豊臣秀吉(とよとみひでよし)が全国の平定に成功する時代である。物珍しさもあってか、たばこの葉は1枚が銀3匁(もんめ/米1俵と同じ価格)だった。

 

 たばこを売り込むキャッチフレーズは①気分を爽快にさせ、やる気を起こさせる②虫歯に効く。切り傷に貼れば出血が止まる③梅毒に効く。その他万病に効く、というものであった。現代では考えられない効能を、売り手の宣教師たちは主張したのだった。

 

 たばこも梅毒も、10数年で日本全国に広がり、高値に目を付けた農家があちこちでたばこの葉を栽培するようになって値下がりし、一般にも浸透したのが、家康が天下平定した頃であった。

 

 最初、たばこは葉を丸めて吸い口の部分に紙を巻き、ろうそくで火を付けて煙を呑んだ(「たばこを呑む」という言い方はここから出ている)。後には、竹の根本の節の部分をくり抜き、これに矢竹のような細い竹を指し込み「煙管(きせる)」と名付けられたものが売り出された。そして、長きせるが流行したという。

 

 たばこの呑み過ぎによる死亡が目立つようになるのは慶長13年(1608)頃から。大名の1人・土方勘兵衛勝久は大のたばこ好きで知られるが、この年11月のある日、突然胸を押さえて苦しみ出し息を引き取った。医師は「たばこの呑み過ぎにより喉が破裂して、息が詰まったのが原因」と診断した。

 

 徳川家康も、たばこには興味を持ち、1度呑んでみた。だが、たちまち喉をやられて咽(む)せ返り、驚き呆れ果てて言った。「このようなもののどこがいい?放っておけば火事の元になるだけではないか」。そして、老中を通して、城内はもちろん、諸大名に対しても「たばこは呑んではならぬ」と伝えた。

 

 しかし、一向にたばこの流行は収まらない。そこで慶長16年(1611)8月6日付で「たばこ禁止令」を出した。それでも流行は止まらない。家康は元和2年(1616)10月3日、再度の禁止令を出す。今度は厳しい罰則付きであった。「たばこを作った百姓は30日、売った商人は50日、受牢させる。作った者の村は連帯責任を負わせるし、支配代官にも過料を出させる」という厳しいものだった。

 

 この禁止令を逆手に取ったのが、白木屋の祖とされる京都の商人・大村彦太郎(おおむらひこたろう)である。たばこ禁止令が出ると、京・大坂・江戸では豪華なものを含め「キセル」が捨てられた。これを拾い集めたり、安く買ったりした彦太郎は「いずれ禁令が解かれた際には売り出せる」と踏んだのだった。その予測はあたり、家康の没後に禁令が緩むと、売り出して大もうけをし、後の白木屋の身代の基礎を作ったという。江戸の「かわら版」は白木屋こそ、たばこでもうけた最初の商人と書いた。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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