【ランキング】戦国武将で「頭脳明晰、東大にも入れそう!」な人物は?
歴史人ランキング
権謀術数渦巻く戦国時代。優秀な人物でなくては生き残れなかったことでしょう。今回の雑誌『歴史人』のアンケートは、「戦国武将の中で、”頭脳明晰、東大にだって入れそう”な人物は誰?」。集計結果の第5位から第1位までを発表します。 <総票:316票 男性:女性=8:2>

滋賀県長浜市にある石田会館。石田三成が生まれた屋敷跡に銅像や資料館がある。豊臣政権の実務を一手に担った三成は、果たして何位か・・・。
第5位 「織田信長」 投票数:18 票
第5位は、18票を獲得した「織田信長(おだ・のぶなが)」。14票を獲得した、6位の真田幸村(さなだ・ゆきむら)と伊達政宗(だて・まさむね)を4票上回ってランクインしました。
カリスマ武将No.1として圧倒的な存在の信長は、強いリーダーシップを発揮して他の武将が出来なかったことを次々と実行していきました。
経済力に左右された戦国大名の勢力。国力は米の単位である石高で示されることが多く、米の生産高は豊かさの大きな要因となりました。信長が統治していた尾張は、濃尾平野があり穀倉地帯として知られる一方で、木曽三川の水害にも悩まされる土地でした。そうした状況で信長は、商業に着目。南蛮貿易の拠点である堺や、水運の拠点である大津・草津などの要地を直轄地にして、商品流通網を握りました。
また水運だけでなく陸運の整備にも乗り出すなど交通網を整備することで、商品の流通を促進。さらに商品となる産業の育成にも力を入れ、商品を自由に売買する場「楽市楽座」を導入しました。そして課税免除と自由取引を掲げて市場と都市の活性化を図りました。また生野銀山を領有してからは鉱業にも力を入れます。背景には兵農分離を進めることで、武士の専業化を図る意図がありました。
信長に票を入れた人からは、「信長は、楽市楽座や天下布武など革新的な改革をしています。頭が良くないと出来ないと思いました」「知識を吸収した上でアイデアを出す。本当の意味で頭脳明晰だった人物と思う」「時代を読む革命家であり、開拓していく実力者でもあった信長。彼なら、現代の東大でも、異彩を放つ天才として知られていたように思えます」といった意見が寄せられました。
第4位 「徳川家康」 投票数:34 票
4位は、信長の倍近い34票を獲得した徳川家康(とくがわ・いえやす)でした。織田信長、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)と共に三英傑の一人とされる家康。関ヶ原の戦いに勝利して戦国乱世に終止符を打ち、天下統一を成し遂げたことはご存じの通りです。
家康は、8歳から19歳までを駿河・遠江の戦国大名・今川家で人質として過ごしましたが、この時期に戦略的思考を身に付けます。三河に戻って来てからの家康は、家臣たちとの”鉄の結束”のもと、数々の戦に臨みました。石川数正(いしかわ・かずまさ)や黒田長政(くろだ・ながまさ)、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、本田正信(ほんだ・まさのぶ)ら智将たちの知能と策謀の末に、慶長8年(1603)に江戸幕府を開幕。武家諸法度や参勤交代などの幕藩体制を確立して、260余年もの長きに亘って大名や人々を統制しました。
戦略・戦術に優れ、内政・外交にも高い能力を持つ部下たちに尊敬されていた家康を、”頭が良い”武将として考える人たちは多くいるようです。家康を推す人たちからは、「何事も上手く切り抜けてきた人生。頭が良いことを示しているように思います」「強運に加え、冷静に考える力を感じさせる武将といえば家康ではないでしょうか」「先見の明があったのは、頭脳明晰ゆえ。260年以上も続く天下泰平の世の礎を築いた功績は大きいと思うから、なおさらです」などの感想がありました。また、「乱世を生き抜いたしぶとさ、地道に地力をつけていく様子は、難関大学の入試も突破できそうと思わせます」といったコメントもありました。
第3位 「明智光秀」 投票数:57 票
第3位は、明智光秀(あけち・みつひで)で57票を獲得。4位の徳川家康に20票以上も差を付けました。カリスマ武将・織田信長に仕えるも、本能寺の変で反逆。逆臣の悪名を刻まれましたが、近年では古典的教養や軍事的才能、領国での善政などが再評価されています。
美濃・清和源氏の流れを汲む土岐・明智一族である光秀は、幼い頃から血筋・源氏を意識して、兵法・武術はもとより有職故実(ゆうそくこじつ)や文化・教養を身に付けており、特に連歌や茶の湯に秀でていたそうです。
足利義昭(あしかが・よしあき)が信長に上洛援助を要請した際の交渉役が光秀。この折に、信長は光秀の有能さを見抜き、自分に仕えるように促したといわれています。典礼・作法を身に付けており、外交などに必要な文化教養もある光秀の能力は、織田家臣団にはないものでした。さらに光秀は経済・内政にも明るく、築城術の達人でもあり、武人としても秀でた存在でした。
比叡山延暦寺焼き討ちで中心となって活躍した光秀は、信長に功績を認められます。近江国滋賀郡を貰い、坂本城を築城。水害対策として堤を築き、天災や天候不順に際しては、領民からの年貢・税金を半減・免除するなど優れた領国経営を行ないました。
光秀を評価した人の多くが、こうした能力に目を留めたようです。「有職故実や古典に通じている光秀からは、ずば抜けた知性の高さを感じます。戦国時代トップクラスの教養と知識の持ち主だったのではないでしょうか」「信長の勢力拡大は、光秀がいたからこそ。織田家臣の中で、”中途採用”ながら抜群の活躍でトップまで昇り詰めました。”東大を主席で卒業するのでは?”と思わせる優秀さだと思う」など高く評価する声が寄せられました。
第2位 「黒田官兵衛」 投票数:59 票
光秀をわずかに2票上回り、59票で2位となったのは黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)。豊臣秀吉の天下統一を支え、戦国最強の軍師として名高い人物です。
官兵衛の才能に目を付けたのは、これまた信長。播磨国内で小寺氏の家老として知られていた程度で、全国レベルでは無名の存在だった官兵衛ですが、岐阜城で信長に拝謁した際に、弁舌の才を高く評価され智将として認知されることになります。以後、官兵衛は、中国進出、天下統一戦の戦略・戦術から外交まで一手に担い、賞賛を集めました。
官兵衛は御家の存亡を賭けた分岐点で、選択を間違えない慧眼を持っていました。天正3年(1575)に、合戦の指揮を配下任せにする毛利輝元(もうり・てるもと)よりも、前線に立つことを厭わない信長を評価し、信長方に属することを決断したのも、その一つでしょう。
そして、本能寺の変が起きた際には、毛利氏との和睦を進展させ、中国大返しを秀吉に提言。また秀吉の死後、混乱する政局の中、次の天下人は家康だと見抜き、嫡男・長政に反三成派として活動させるなど危険な賭けに出ない戦術も智将とされる理由のようです。
官兵衛はまた、築城名人としても有名であると同時に、都市プランナーとしても能力を発揮しました。大阪城のような海沿いのウオーターフロントに立地した新時代の城の縄張りが得意でした。官兵衛が築いた城は、防御性が抜群に良いだけでなく、淀川の河口や大坂湾に面することで海上交通の起点にもなり、都市の中核も兼ねたものだったのです。
また、巧みな領国経営の手腕も発揮。「黒田二十四騎」と称される家臣団を形成し、「黒田如水教諭」では家臣や領民との信頼関係の大切さや知識を習得する大切さを説いています。
軍師としての能力の高さから、「官兵衛こそ頭脳明晰な武将」と考える人が多かったようです。「中国攻めから分かるように、頭脳を使っての活躍が印象的な武将です」「中津城を守っていた折、官兵衛は百姓を中心に9,000余りの兵を率いて出陣。この戦いを含む石垣原の戦いで、勝利を収めました。官兵衛には、頭の切れが抜群だったことを思わせる戦が多くあります」などの意見がありました。
また、「戦同様、入試の攻略法もすぐに見つけてしまいそうです」「秀吉を天下統一に導いた智謀は、東大入試も軽くクリアしそう。突拍子もない回答で点がもらえない可能性もありますが」などの予想コメントもありました。
第1位 「石田三成」 投票数:62 票
そして第1位となったのは石田三成(いしだ・みつなり)。2位の官兵衛より3票多い62票を獲得しました。
永禄3年(1560)、近江国坂田郡石田村で、土豪・石田正継(まさつぐ)の次男として誕生した三成。父・正継は浅井家に仕えていたようです。浅井長政が織田信長に滅ぼされ、秀吉が与えられた領土を視察していた際に、三成と出会います。秀吉に熱さが異なるお茶を出した「三献茶」の逸話が有名ですが、ここからも三成が頭脳派であることがうかがえます。秀吉がすぐに、「近習」として三成を召し出したのもうなづけます。
三成は秀吉と出会ったことで、持ち前の才能を開花させていきます。秀吉の身近かに仕えることで政治的な嗅覚を学び、他の武将との取次役を担うことで外交的な手腕も身に付けていったようです。やがて内政面では奉行として豊臣政権を支え、軍事面では兵站に従事しました。
本能寺の変の後、天下人への道を歩む秀吉を、三成は内務官僚として支えていきます。やがて秀吉が天下統一を果たすと、太閤検地や刀狩など秀吉の重要な政策を担ったのもまた三成でした。
秀吉が逝去すると、7歳の秀頼を中心に豊臣家を盛り立てようと行動しますが、やがて政権奪取を狙う家康と対立していくようになります。関ヶ原合戦では、三成は実際に指揮命令を行なっていましたが、結局、家康率いる東軍に敗れ、三成は処刑されて亡くなりました。
「智将=三成」という印象を持っている人は多いようです。「三成こそ頭脳明晰No.1武将」と票を投じた人からは、「秀吉へのお茶の出し方など、数々の逸話が三成の頭の良さを物語っていると思います」「秀吉への仕え方は、まさに現代の官僚のようです。三成ならば、大学入試や難しい試験もなんなくパスしそうです」「兵糧の調達、検地、町割などを行い結果を残した三成は、数字に強そうな気がします」などという意見が多く寄せられました。
(アンケート…メールとハガキで集計。総票数:316票)