家康も認めていた石田三成の「忠義」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第33回
■秀吉への「忠義」を尽くす石田三成

三成が生まれた屋敷の跡地であり、ゆかりの鎧や古文書などが展示されている石田会館(滋賀県長浜市石田町治部)に立つ石田三成像。
石田三成(いしだみつなり)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に計数(けいすう)の才を認められ出世し、豊臣政権の権力強化を図るため、豊臣秀次や蒲生秀幸(がもうひでゆき)たちを策謀によって陥(おとしい)れた謀略家、または奸臣(かんしん)というイメージがまだ一般的には強いと思われます。
しかし、実際は秀次(ひだつぐ)の弁護をしたとも言われており、秀次の家臣を迎え入れています。蒲生家の改易の際にも弁護し、多くの蒲生家家臣を召し抱えています。また取次として、島津家や佐竹家の窮地を救ったり、太閤検地(たいこうけんち)を実施して両家の体制強化を図ったりするなど、手助けも行っています。
そして、関ヶ原では敵味方に分かれることになる真田信之(さなだのぶゆき)との交情は深く、当時やり取りされた手紙が今も残されています。
三成が奸臣や佞臣(ねいしん)として否定的に扱われたのは、豊臣家に二心なく「忠儀」を尽くし、家康と対立してしまった事が原因だと思われます。
■「忠義」とは?
「忠義」とは辞書等によると「私欲をさしはさまないで、まごころを尽くして主君や国家に仕えること」とされています。また「忠義」は武士道における7つの徳目の一つとされています。
一方で、混同されがちな「忠誠」は、現代でも会社や組織、個人に対しても使われるように、「忠義」よりもやや柔らかいイメージがあります。
君主や国家に仕える場合には「忠誠」よりも「忠義」の方が意味的にもより厳格さを感じます。三成は恩義ある秀吉に対して、生前はもとより死後もその遺言を破らぬよう「忠義」をもって仕えます。
■石田三成の事績
石田家は近江の守護大名である京極家に仕える土豪だったとも言われておりますが、出自については不明な点も多いようです。近江国坂田郡石田村を本貫とし、秀吉が長浜城主となったころに、父正継(まさつぐ)や兄正澄(まさずみ)と共に仕えるようになります。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで一番槍の功名を挙げるなど武功もあるものの、事務処理能力の方を高く評価され、豊臣政権にとって重要な代官や奉行職を数多く務めていきます。
1592年の文禄(ぶんろく)の役では、大谷吉継(おおたによしつぐ)たちと共に総奉行を務めて秀吉の意向を反映する役割を担います。1595年の秀次事件の後に、京や大阪を守る上で重要な地である近江佐和山19万石を任されています。
1597年の慶長の役でも兵站(へいたん)など後方支援を担いますが、ここで豊臣譜代の諸将との軋轢(あつれき)が生まれ、その後の三成襲撃事件へと発展し、奉行職を離れ蟄居(ちっきょ)する事になります。
三成は秀吉に「忠義」を尽くし厚い信頼と高い評価を受けていました。しかし、その姿勢が他の譜代大名たちに不快感を与えていたのかもしれません。
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