家康が高めた井伊直政の「価値」とその後
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第30回
■外様から筆頭譜代になった井伊直政

彦根城跡の金亀児童公園(滋賀県彦根市金亀町)に建立されている井伊直弼の銅像。明治時代に、直弼を顕彰する目的で旧彦根藩士らによって建立された。
井伊直政(いいなおまさ)は「徳川四天王」として酒井忠次(さかいただつぐ)や本多忠勝(ほんだただかつ)たちと並び称され、「井伊の赤鬼」とも呼ばれ数々の戦にて活躍した、徳川家きっての譜代大名として知られています。
井伊家は遠江(とおとうみ)の国人衆で今川家に仕えていた事もあり、三河を本貫とする徳川家中において本来であれば外様の扱いでした。しかし、徳川家が勢力を拡大していく中で、戦場での槍働きだけでなく、外交面においても功績を上げ外部からの評価も高まり、譜代筆頭のような存在感を持つようになります。
これは井伊直政および井伊家が持つ「価値」が、家康によって意図的に高められた結果だと思われます。
■「価値」とは?
「価値」とは辞書などによると、「その事物がどのくらい役に立つかの度合い。値打ち」とされています。
また「経済学で、商品が持つ交換価値の本質とされるもの」や「ある目的に有用な事物の性質。使用の目的に有用なものを使用価値、交換の目的に有用なものを交換価値」という意味もあります。
一般的には存在価値や利用価値といった使われ方もありますが、あまり良い使い方のイメージではありません。
家康は今川家旧領へ勢力拡大を図るために、井伊家の「価値」に目を付けました。
■井伊家の事績
井伊家は遠江国井伊谷(いいのや)を本貫とし、吾妻鏡(あづまかがみ)などの書物に鎌倉幕府の御家人としてその名が残されています。
南北朝の頃には宗良(むねよし)親王を保護し、南朝方として、駿河の今川家や高師泰(こうのもろやす)など北朝方と戦うなど、遠江においては由緒ある家柄です。その後、今川家に従うものの、遠州錯乱などで再び対立し、井伊家の勢力は大きく衰退していきます。
しかし、長年遠江の名家として知られる井伊家のブランドは、家康にとって価値のあるものでした。
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