家康が見抜けなかった松倉重政の「虚栄心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第27回
■島原の乱の遠因を作った松倉重政

松倉氏が建てた島原城(長崎県島原市城内)の天守閣。明治9年までに一度解体されたが、昭和39年に復元されている。
松倉重政(まつくらしげまさ)よりも、嫡子で二代目島原藩主の勝家(かついえ)の方が、領民を塗炭(とたん)の苦しみに陥(おとしい)れ、島原の乱の原因を作った悪名高い大名として知られていると思います。乱における被害のあまりの大きさから、勝家は切腹を許されず、罪人として斬首されています。これは江戸時代を通じて異例の事です。
ただ、これほどの大事件の遠因は初代藩主重政が始めた苛政(かせい)にあります。
重政は過酷に税を搾取し、徹底的なキリシタン狩りを行うなど領民を過剰に苦しめます。しかし、重政が大和五條(やまとごじょう)を治めていた頃は、その善政を領民から高く評価されていました。転封となった後も、五條では豊後(ぶんご)さまと呼ばれ慕われています。
この評判の落差には重政が抱える「虚栄心」が関係していると思われます。
■「虚栄心」とは?
「虚栄心」とは辞書によると「自分を実質以上に見せようと、みえを張りたがる心」または「うわべだけを飾ろうとする心。自分を実質以上によく見せようとすること」とされています。
組織内で見られる「虚栄心」とは、上司に対しては自分の成果を大きくみせる事で評価を高めるため、同僚・部下に対しては畏敬(いけい)の念を持たれたいため、という自己顕示欲から生み出されるものです。「虚栄心」が強い人の特徴としてはプライドが高い、自己肯定感が低い、他者を認められないなどがあります。
かつて文化の中心であった京に近い大和国で生まれ育った重政にとって、肥前の島原半島への加増転封(かぞうてんぽう)は、現代の左遷のように感じられたのかもしれません。
島原における重政の施政の数々には「虚栄心」が見え隠れします。
■松倉家の事績
松倉家は大和の戦国大名である筒井家に仕えてきました。筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えていた父松倉重信(しげのぶ)は、島左近たちと共に筒井家の重臣として活躍しています。順慶の跡を継いだ定次(さだつぐ)の時代に伊賀への転封があり、重政は父重信と共に名張の封地に行ったとも、大和に残りたいために筒井家を離れたとも言われています。
そして、関ヶ原の戦いで東軍についた功績により、家康から大和五條1万石を与えられました。重政は、諸役を免除することで各地から商人を集めるなど、五條の発展の基礎を作っています。
しかし、大坂の陣での活躍により、島原へ加増転封されてから、重政の領民に対する態度は一変し、過剰な税負担を負わせ諸役に駆り出すなど非常に厳しいものになります。
重政の死後、嫡子の勝家はさらに負担を強要します。凶作にも関わらず人頭税や住宅税などを課したり、支払えない領民へは拷問を加えたりするなど、暴虐の限りを尽くします。そして、追い込まれた領民たちに加えて、迫害されていたキリシタンも蜂起した事で、江戸時代最大の一揆である島原の乱へと発展します。この乱に参加した一揆方約3万人が死亡、幕府側の死者も5千人とも7千人とも言われるほど大きな被害でした。
その結果、勝家は罪人として斬首され、松倉家は取り潰しとなります。
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