家康に愛され、秀忠から疎まれた本多正純の「自負」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第22回
■家康の側近としての自負

本多正純が居城とした宇都宮城(栃木県宇都宮市)。施設のほとんどが戊辰戦争の際に焼失しており、現在では一部の櫓と堀が復元されている。
本多正純(ほんだまさずみ)は、父の本多正信(まさのぶ)と共に豊臣政権を崩壊させた謀略家であり、宇都宮城釣天井(うつのみやじょうつりてんじょう)事件において、謀反を疑われ改易(かいえき)された武将という負のイメージが強いかもしれません。
ただ、実際には宇都宮城には釣天井など存在していなかった事が確認されています。
正純は徳川家康(とくがわいえやす)の側近として駿府で仕え、江戸の二代将軍秀忠(ひでただ)に仕える父正信と共に、初期の幕政の中枢を担っています。しかし、正純の勢威が高まる一方で、同僚たちからの嫉妬や怨嗟(えんさ)も増え、ついには秀忠からも疎まれるようになります。この衰勢の原因は、幕府を支えているという正純の強い「自負」が生み出していたようです。
■「自負」とは?
「自負」とは、辞書によると「自分の能力や功績を人に誇れるくらいには立派であると信じることである」とされています。つまり、自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心の事です。そして、何事もやり遂げるという責任感が付随します。「自負心」は、プライドや矜持に置き換えることもできます。
「自負」と混同されがちな「自尊心」は「他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度の事」とされています。自分の能力や功績の有無に関係なく、自分を尊いと思う気持ちなので、「自負」とは大きな違いがあります。
正純は家康の側近として、外交や内政において数々の献言を行い、担当者としても実務もこなしてきました。それは徳川幕府の設立に大きく関わるものばかりであり、幕府の権威の高まりと共に正純の「自負」が強まるのは当然だったのかもしれません。
■本多正純の事績
本多家は、三河の土豪の出身と言われており、元は酒井家に臣従していたようです。その後、徳川家に従いますが、三河一向一揆で父正信は一揆方に所属して家康と戦います。そして正信の帰参と共に、正純も家康の家臣として仕えるようになります。
その後、正信は家康から「友」と言われるほど重用されていきます。徳川幕府が二元体制となると、正信は江戸で秀忠に仕えるようになり、代わりに正純が駿府において家康の側近として諸政策に関わるようになり、1608年には下野国小山藩3万3,000石の大名となります。
さらに、秀忠を支えていた大久保忠隣(おおくぼただちか)が失脚すると、幕府における本多父子の勢威は最高潮に達します。正純は家康の側近として、外交及び謀略面にも深く関わっています。
こうして本多父子は幕府の中心的な人物として、幕府内だけでなく、外様大名たちからも畏(おそ)れられるようになります。ただ、古参の譜代衆や秀忠側近たちからの怨嗟の声は積もっていきます。まるで豊臣政権下の石田三成(いしだみつなり)のようでもあります。
しかし、家康に続いて正信が死去すると、その勢いにも翳(かげ)りが見えてきました。
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