家康との一戦へ駆り立てた長宗我部盛親の「焦燥」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第25回
■春日局の登場を待たずに大坂へ走った長宗我部盛親

蓮光寺(京都市下京区富小路通)にある、長宗我部盛親の首塚。大坂夏の陣の後に六条河原で斬首された後に葬られた。
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、関ヶ原の戦いでの敗戦により改易され、大坂の陣では真田信繁(さなだのぶしげ)や後藤又兵衛(ごとうまたべえ)と共に戦うものの、戦後に嫡子と共に斬首(ざんしゅ)された「悲運の武将」というイメージがあるかと思います。
関ヶ原の戦いでは前方の吉川広家(きっかわひろいえ)ら率いる毛利家が動かないため、本戦に参加できないまま土佐一国を失う事になりました。
その後、御家再興を目指し京へ登りますが、取次役を期待していた井伊直政(いいなおまさ)が死去するなど盛親にとって不運な事が続きます。諦めずに復帰活動を続けていましたが、徳川豊臣間が不穏になってくると、大坂方の誘いに応じるかたちで御家再興を図ることにします。そのころ、皮肉にも春日局という強力な縁故がうまれつつありました。
この選択の背景には、盛親を駆り立てる「焦燥(しょうそう)」があったと思われます。
■「焦燥」とは?
「焦燥」とは辞書によると「いらいらすること。あせること。」とされています。同じ意味合いで使われる「焦り」は「早くしなければならないと思っていらだつ。気をもむ。落ち着きを失う。気がせく」とあるように、落ち着きがなく冷静な判断ができていない状態を指します。
突然の出来事に驚いて「焦燥」に駆られる事もありますが、原因の多くは周囲の環境の変化によるものだと思います。例えば、同僚の出世や友人の成功など、自分との差が生まれるような状況になった場合です。関ヶ原の戦いから10年以上も経つころには、改易された諸侯が再び大名に取り立てられていくのを見て、盛親も「焦燥」に駆られていたのではないでしょうか。
■長宗我部家の事績
元来、長宗我部家は秦氏の子孫とされ、土佐では有力な国人として知られる存在でした。元親の時代に周囲の勢力を支配下に置き、旧主である一条家を滅ぼして土佐一国を領します。織田信長(おだのぶなが)と同盟関係になると、織田家の有力者である明智光秀(あけちみつひで)の重臣斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を正室に迎えています。さらに、伊予国(いよのくに)や阿波国(あわのくに)へも進出し、四国統一に手を掛けますが、信長の死後に権力を奪取した豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって阻止されます。
その後は豊臣政権下において、数々の戦いに主に水軍として協力していきます。盛親も父とともに文禄慶長の役などにも参加していました。
しかし、父の死後に単独で指揮を取った関ヶ原の戦いでは、本戦に参加できずに終わります。長宗我部家は敗戦を受けて土佐一国を改易され、国持ち大名としての地位を失います。京都にて御家再興を願い活動を続けますが、その訴えは実ることなく、勝ち目の薄い大坂の陣への参加へと繋がっていきます。
■実力を見せる機会がない事への「焦燥」
関ヶ原の戦いで奉行方として戦った諸侯の多くは改易になり、一部は減封されました。但し、二、三年後には改易され浪人した諸侯の中には、罪を許されて大名として復活するものが出てきます。1603年~1604年ごろには立花宗茂(たちばなむねしげ)、丹羽長重(にわながしげ)、滝川勝利(たきがわかつとし)などが家康によって新たに取り立てを受け、再び諸侯へと返り咲いています。
しかし、石田三成たちの奉行方に巻き込まれるように参加し、本戦でも積極的に戦闘を行っていないにも関わらず、盛親には復帰の沙汰が降りていません。
一方で東軍と干戈(かんか)を交えた宗茂や長重などは順調に加増されていき、最終的には10万石クラスの大名にまでなります。復帰できた諸侯は、それぞれ戦闘指揮力や築城技術、外交力など突出した能力を有していました。
盛親も文禄慶長の役など主要な戦に参加していましたが、元親主導の元だったせいか、その実力に関する評価は残されていません。そして、徳川幕府の下では大きな戦がないため、評価を高める機会を得られないまま時間だけが過ぎていきます。
浪人し、旧家臣たちから援助を受けて過ごている盛親が「焦燥」に駆られるのは当然かと思います。そして、1614年に豊臣家からの誘いに応じ大坂城に入城することになります。
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