豊臣政権ではなく家康を選んだ前田利長の「決断」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第24回
■現代での利長の印象を悪化させた「決断」

古城公園(富山県高岡市)に立つ前田利長の像。「銀鯰尾兜(ぎんなまずおのかぶと)」という高さ約130㎝の兜を着用している。
前田利長(まえだとしなが)は豊臣政権の五大老という重責を放棄し加賀へと帰国した事で、徳川家康(とくがわいえやす)の専横を許し、豊臣家滅亡のきっかけを生んだ戦国武将というイメージが強いと思います。
家康による加賀征伐を恐れ、母のまつこと芳春院(ほうしゅんいん)を江戸に人質として送り、徳川家の軍門に降った軟弱な武将と思われる事も多いかもしれません。
しかし、北ノ庄(きたのしょう)攻めや九州征伐、小田原征伐に従軍して武功を立てており、また関ヶ原の戦いでも一軍を率いて北陸方面で活躍するなど勇猛果敢な一面もあります。また、家中統制に苦労しながらも幕末まで続く加賀百万石(かがひゃくまんごく)の基礎を築いており、有能な戦国武将だったといえます。
利長の印象を低下させているのは、前田家の存続を徹底的に優先した「決断」にあると思われます。
■「決断」とは?
「決断」とは辞書によると「心をはっきりと決めること。きっぱりと断を下すこと」または「事の是非、善悪、正邪などを判断し裁決すること」とされています。よく混同される「判断」は「法に基づいて判定すること」という意味があるように、過去の事例などを元に客観的な視点で善悪を決める事をさします。
一方で、「決断」は主観的な視点から物事を決めるという意味になります。そのため自分の意志を基本として決定する点が大きな違いになります。
利長は父や秀吉(ひでよし)の遺言を破り、五大老と豊臣秀頼(とよとみひでより)の博役という豊臣政権を左右する重要な役目を放棄して領国へ戻ります。この「決断」は規則やルールを基準とせず、利長の主観的な意志のもとで行われています。
■前田家の事績
前田家の出自は尾張(おわり)の土豪と言われているものの、利家の父利昌(としまさ)より以前については明確になっていません。そのため利家が織田信長の寵愛(ちょうあい)を受け、赤母衣衆(あかほろしゅう)として仕えたのが始まりと言われています。
前田家は柴田勝家(しばたかついえ)の与力として越前一向一揆の鎮圧や各地での戦闘などにも貢献し、能登23万石を領する大名となりました。しかし、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは若い頃から交友関係にある豊臣秀吉の誘いに利家が応じて秀吉方へと転じます。その後は秀吉の天下統一事業を助け、小田原征伐では北陸勢を率いて活躍し、伊達家や南部家など東北諸侯の取次も行っています。
利家の地位が上昇すると共に、前田家は徳川家に次ぐ家格を与えられるようになります。晩年には五大老に任じられ、秀頼の後見役も任されるまでになりました。
織田政権時代からの武功により、武断派の諸将からも一目置かれる存在だった利家でしたが、秀吉の後を追うように亡くなってしまいます。派閥抗争が激化する中、政権の舵取りという重役を利長が引き継ぐ事になります。
■前田家の希少性と環境変化
利長が信長の娘を正室として迎えている点からも、前田家は信長から評価と信頼を得ていたようです。豊臣政権においても秀吉との足軽時代からの関係性もあり、貴重な譜代として扱われています。
前田家は信長の娘婿という関係から秀頼の縁戚へとつながる点でも、豊臣政権内で希少性の高い存在となります。
利家が秀吉の晩年には五大老に任じられ、家康を牽制(けんせい)する地位にまで登り詰めます。利長も若くして、利家とは別に越中32万石を与えられ独立した存在となっています。利家の死後、利長は前田家の家督と共に秀頼の博役という重職も継承します。
しかし、家康に対抗する事を期待されたものの、利家から継承した金沢26万石と自身の能登や弟利政の所領を合わせ ても、徳川家250万石には遠く及びません。さらに、家中では利家と利長のそれぞれに付いていた家臣が派閥抗争を始めます。徳山則秀(とくのやまのりひで)のように出奔(しゅっぽん)する者も出るなど、統制に苦労するようになります。
しかも、3年間は五大老、秀頼の博役として大坂に詰めるよう利家が遺言を残しており、利長は苦境に立たされる事になります。この時、利長は前田家の存続のために大きな「決断」をします。
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