家康からの「信用」維持に苦慮した真田信之
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第29回
■「信用」の獲得とその弊害

信之が居城とした松代城址(長野県長野市松代町松代)。明治期の廃城令により建築物を失ったが、平成の大普請により城門や木橋などが復元されている。幕末になると信之の直系は途絶えてしまい、養子として松平定信の子である幸貫(ゆきつら)が入り、家督を継いだ。
真田信之(さなだのぶゆき)は関ヶ原の戦いでは父昌幸(まさゆき)、弟幸村(ゆきむら)こと信繁(のぶしげ)と袂(たもと)を分かち、大坂の陣では再び信繁と敵対する関係となるなど、家族と敵味方に分かれて戦う悲運の武将としてのイメージが強いかと思います。
信之は家康の養女を妻として迎えた事で徳川家と縁戚関係にあるものの、父や弟など身内の行動により、幕府からの警戒は続きます。
そして、大坂の陣を乗り越えて幕府への奉公を続けた結果、松代13万石への加増転封を受けます。しかし、その後家族内で不和が続き、信之の心労は絶えることがありませんでした。これは「信用」を積み上げるために犠牲にしたものが多かったからだと思われます。
■「信用」とは?
辞書によると「信用」とは「主にその人の実績や成果を元に評価する事」を指します。つまり過去に積み上げてきたものに対して信任を与えます。
一方でよく混同される「信頼」は「その人の人柄や態度、立ち振る舞いなど人間性を評価する事」を指します。今後の保証がされてなくても安心して任せる事を指します。
これまでの結果など信じるために条件があるのが「信用」で、人間性など感覚的でほぼ無条件に信じるのが「信頼」となります。家康(いえやす)から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われた昌幸が父である限り、真田家の心証を良くするためには、コツコツと将軍家へ奉公をして、「信用」を積み上げていく必要が信之にはありました。
但し、その過程で犠牲になるものが多くありました。
■真田家の事績
真田家は祖父幸隆(ゆきたか)の時代に武田家に服属し、信濃先方衆として戦功を上げ、最終的には武田二十四将にも数えられるようになります。幸隆の死後、長男の信綱が真田家を継ぎますが、長篠の戦いで信綱と次弟昌輝(まさてる)が戦死したため、武藤家を継いでいた三男の昌幸が突如として継承することになります。
真田家の継承の正統性を保つため、長男である信之に信綱の娘(清音院殿/せいいんいんでん)を娶(めと)らせました。
武田家が滅ぶと真田家は北条家や徳川家など各勢力の下を渡り歩き、豊臣政権の承認を得て独立大名となります。そして、関東に移封された徳川家の与力となりますが、関ヶ原の戦いでは信之が徳川方として、父と弟が石田方として袂を分かつ事になります。
1614年から始まる大坂の陣では、再び弟と敵対する事になります。ちょうどそのころ信之は病を得ていたため息子たちが代わりに出陣しています。
1622年には、これまでの功績が認められ、信濃上田9万5,000石から要衝の地と言われる信濃松代13万石に加増転封されます。一方で、四代将軍家綱(いえつな)の時代になるまで信之の隠居が許されないという状態が続きます。
その結果、1635年に長男信吉が、1658年に次男信政が、さらには孫たちも信之より先に亡くなった事で、家中で後継者争いが起こります。
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