家康や清正と対峙した小西行長の「承認欲求」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第31回
■商家から戦国武将になった小西行長

安土桃山時代に小西行長が築いた、宇土城跡(熊本県宇土市古城町)に立つ小西行長像。跡地は現在城山公園として整備されている。
小西行長(こにしゆきなが)といえば、石田三成(いしだみつなり)や大谷吉継(おおたによしつぐ)たちと共に毛利家を担ぎあげ、関ヶ原の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)たち東軍と対峙し、敗れた戦国武将というイメージが強いと思います。
行長は商家出身でありながら、豊臣秀吉(とよとみひでよし)にその才覚を見込まれて肥後半国の大名にまで出世した珍しい存在です。また、実際の合戦でも活躍し、肥後半国を拝領しているように、戦場での高い指揮能力も有する武将です。一方、戦後の明との講和交渉において偽装工作を行うなど、他でみせる姿勢とは逆の行動を取っています。
これらの行動は、行長が抱く強い「承認欲求」が関係しているように見受けられます。
■「承認欲求」とは?
「承認欲求」とは辞書等によると「他人から肯定的な評価を受けたい、否定的な評価をされたくない、自分を価値のある存在だと思いたい、という欲求」とあります。実際、多くの人が大なり小なり「承認欲求」を持っています。「承認欲求」には、他者や上司から良い評価を得るため努力を惜しまない等、プラスに作用する面もあります。
しかし、「承認欲求」が強すぎると自分が認められるために他者との関係を悪化させてしまうなど、人間関係での弊害が目立つようになります。また異常に失敗を恐れたり、嘘や偽りが増える傾向もあるようです。また、「承認欲求」は宗教への傾倒に繋がりやすいとも言われています。
特に文禄の役(ぶんろくのえき)以降の行長の行動には、これらの要素が多く見られるように思います。
■小西行長の経歴
父の小西隆佐(こにしりゅうさ)の職業は薬種商(やくしゅしょう)と言われ、キリシタンとしてルイス・フロイスの世話をする中で、織田信長(おだのぶなが)との面識を得ています。その後、豊臣秀吉が権力を握ると、隆佐は豊臣政権内で信用を得て、蔵入り地の代官や堺の奉行となるなど、長男の如清と共に重用されていきます。
次男の行長は、宇喜多直家(うきたなおいえ)によって武士に取り立てられていましたが、秀吉との交渉を担当していくうちに、その才能を認められ豊臣家の直臣となります。この時から、交渉に関する能力を見込まれていたのかもしれません。
当初は、商家の出という経歴もあったのか主に水軍を任されます。そして、紀州征伐で功績を挙げ、小豆島1万石を与えられて大名となります。この時期に、高山右近(たかやまうこん)の勧めもありキリスト教に入信し、自領での布教活動を支援しています。
そして1587年の九州征伐及び、翌年の肥後国人一揆鎮圧での功績により、加藤清正(かとうきよまさ)と分け合う形で肥後半国20万石を与えられています。約20倍という大幅な加領ですが、治めるのが難しいと言われる肥後を任されたという点では、秀吉から高く評価されていたと思います。
その後、秀吉の唐入りのため、娘婿である対馬の宗義智(そうよしとし)と共に、対朝鮮外交を担うようになります。ここでもまた秀吉の期待に応えるべく、戦闘指揮の面で尽力します。
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