艦上機の集中攻撃で迎えた最期!日本海軍が最後に建造した大和型2番艦「武蔵」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第12回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火(ごうか)で朱に染めた死闘を戦った。第12回は、日本海軍が最後に建造した戦艦で、世界最強の大和型戦艦の2番艦。海軍内部でも不沈戦艦と称されながら、航空機の集中攻撃によって「大和(やまと)」よりも先に撃沈された悲運の名艦「武蔵(むさし)」のエピソードである。

1944年10月22日、レイテ沖海戦に向けてブルネイを抜錨した「武蔵」。この撮影の2日後に戦没する。
当初、第2号艦の仮称で呼ばれた「武蔵」は、1938年3月29日に三菱重工業長崎造船所で起工された。「大和」と同じくその建造は秘匿されることになり、さまざまな工夫が施された。
たとえば、その巨大な船体を隠すためにシュロを使って簾(すだれ)のような目隠し材が作られた。しかし当時、シュロは漁網などに用いられており、海軍が極秘で一気に大量買い付けしたせいで市場価格が高騰。これを漁業関係者が訴え、事情を知らない警察が不当な買い付け事件として捜査したともいう。
一方、造船所近隣の住人たちは、それまで一度も見たことのない巨大なシュロの簾で「武蔵」が建造されている船台が囲われたため、何かが極秘で建造されていると察しており、それが超巨大な戦艦であることは薄々ばれていたともいう。
また、造船所を見下ろせる高台に建っていたグラバー邸や香港上海銀行長崎支店は、関係者以外の目視を避けるべく三菱重工業によって購入され、造船所の対岸にあったアメリカとイギリスの領事館からの視野を遮るために、長崎市営常盤町倉庫が建てられている。
もちろん、軍の内部でもさまざまな形で機密保持が図られた。その一例としては、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から、長崎市上空の飛行を禁止されたほどであった。
「武蔵」の進水は1940年11月1日。相変わらずその存在を秘匿するため、進水式当日は防空演習の名目で近隣住民の外出が禁止され、警察、憲兵、海軍将兵多数が見張りに立った。
「武蔵」の就役は太平洋戦争勃発後の1942年8月5日。「大和」よりも後から建造されたため、「武蔵」は「大和」での問題点の改善が図られている。そのひとつが旗艦設備の充実で、ゆえに就役後は一時期、連合艦隊旗艦を務めた。
1943年4月18日、前線視察中に撃墜され戦死した山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官の遺骨は、「武蔵」に乗せられて同年5月23日に帰国した。
その後、「武蔵」は栗田(くりた)艦隊の主力の1隻としてレイテ沖海戦に出撃。シブヤン海海戦でアメリカ艦上機多数の波状集中攻撃を受けて満身創痍(まんしんそうい)となり、1944年10月24日に戦没。戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平(いのぐちとしひら)艦長以下1023名で生存者は1376名。このとき、先に戦没して「武蔵」に救助されていた重巡洋艦「摩耶(まや)」の乗組員117名も戦死している。