原爆実験で没した日本が誇る名艦・長門型1番艦「長門」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第9回】
空母出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第9回は、日本が独自に建造し就役当時は世界最強と目され、「世界のビッグ・セブン」のうちの1隻に数えられた長門型戦艦の1番艦。戦没こそしなかったものの、大戦末期に空襲で損傷し終戦を迎える。そして戦後すぐに、ビキニ環礁での原爆実験に供されて没した名艦「長門(ながと)」のエピソードである。

1944年10月、「捷一号(レイテ沖海戦)」作戦出撃直前にボルネオ島ブルネイ泊地に停泊中の「長門」。
日本海軍は、第1次大戦後の増強案として八八艦隊計画を立ち上げた。同計画をごく簡単にいってしまうと、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を保有。これを日本海軍の主軸に据え、その他の艦艇で補強するというものだった。そして、この計画の嚆矢(こうし)として設計されたのが長門型戦艦である。
設計に際しては、日本海軍の「師匠」であるイギリス海軍からクイーン・エリザベス級戦艦の設計図の提供を受け、これをベースに同じくイギリス戦艦ウォースパイトも参考にしたうえ、日本独自の改修も加えて完成させた。
最大の特徴は、当時、世界的に戦艦の主砲としては最大口径の41cm砲を連装砲塔に収め、この砲塔を艦首側に2基、艦尾側に2基の計4基8門備えたことだろう。このように、長門型は就役当時は世界最強の戦艦であった。
のちにワシントン海軍軍縮条約で16インチ砲搭載の戦艦の保有数が世界的に制限され、アメリカ3隻、イギリス2隻、日本2隻しか認められなかったため、この7隻は「世界のビッグ・セブン」と称された。
また、艦首は独特のスプーンバウとされたが、これは当時の秘密兵器だった艦隊決戦用浮遊機雷の1号機雷を起爆させずに乗り越えるための工夫である。最大速力は26.5ノットと、当時の戦艦としては高速であった。
「長門」は就役後、連合艦隊の旗艦となり、太平洋戦争中は「大和(やまと)」と「武蔵(むさし)」が秘密扱いされていたことから、日本国民は噂では「大和」型の話を聞いたことはあっても、公式には終戦まで「長門」型を日本の最強戦艦だと思っていた。
「長門」は戦前に2回の近代化改装を施されており、他にも逐次小改装が施された。そして1941年12月の太平洋戦争開戦に際して、有名な「ニイタカヤマノボレ1208」の真珠湾攻撃を命ずる暗号無線は、本艦の無線室から発信されたのだった。
しかし開戦後は、航空主兵の台頭と大艦巨砲の衰退が影響して、活躍の場はほとんどなかった。そのため戦争末期には、燃料不足もあって横須賀に係留され、アメリカ艦上機の空襲を受けて損傷。終戦によりアメリカ軍に接収された。そして戦後、捕鯨の再開にともなって、大洋漁業に捕鯨母船として貸し出される可能性もあったが、これはかなわなかった。
その後、「長門」は1946年7月にアメリカがビキニ環礁において実施した原爆実験の「クロスロード」作戦で、標的艦の1隻とされ没した。その姿は現在も同地のダイビングスポットとされているが、放射能汚染の問題でダイバーが触れることは許されていない。