戦争中、国民はその存在を知らないままに散った大和型1番艦「大和」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第11回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火(ごうか)で朱に染めた死闘を戦った。第11回は、列国海軍の軍縮条約明けに向けて、日本海軍がその対抗策として設計。史上世界最大かつ最強を目指した大和型戦艦の1番艦で、後年、大人気アニメの「主役メカ」としても歴史に名を残す、あまりに有名な「大和(やまと)」のエピソードである。

公試中の「大和」。同時代の各国の他の戦艦とは異なる大和型の独特のシルエットがよくわかる。1941年10月30日の撮影。
航空機が世界を巡る「戦略兵器」と位置付けられるようになるのは、第2次大戦中といってもよい。それ以前は、大洋を越えて海外を攻められる最大最強の軍艦である戦艦が、「砲艦外交」の言葉に示されるように「政戦略兵器」として認知されていた。
ゆえに第1次大戦の戦勝国は、海軍力の増強に努力した。しかし軍拡競争にかかる財政は天井知らずなため、列強は海軍軍縮条約を締結し、一時的に軍艦の増産に歯止めをかけた。だが結局、日本の脱退などにより同条約は解消。そしてこの「条約明け」を睨(にら)んで、列強は強力な戦艦の新造を目論んでおり、日本も同様だった。
そこで日本は、当時の海軍の最新最強の戦艦だった長門(ながと)型を凌駕する火力と防御力を備える新戦艦の建造を検討・研究する。このあたりをごくごく簡単に言ってしまうと、軍縮条約によってアメリカやイギリスよりも少なく抑えられていた戦艦の保有隻数は、相手側も建造を再開するため「数で挽回」はできないがゆえ、「敵よりも段違いに強い」戦艦を造って対抗するという発想に至った。
そして、当時の世界の戦艦の最大口径砲である41cm砲を超える46cm砲を採用し、敵戦艦の射程外から先に砲撃するアウトレンジで有利に攻撃。バイタル・パートと称される艦の重要な部位を守る集中防御方式の採用で、堅牢(けんろう)かつ合理的に守りを固めた。
かくして、主砲口径46cm、排水量約7万tという、世界最強最大の大和型戦艦の建造が決まり、ネームシップは「大和」と命名された。
この世界最強最大の戦艦の建造に際して、日本海軍は秘密の保持に全力を注ぎ、大和型の存在を多くの国民が確信できたのは敗戦後だったが、「大和」が建造されていた呉(くれ)では、早くから巨大戦艦が建造されていることが噂として知られていたという。また上層部の一部には、「政戦略兵器」の戦艦だからこそ、戦争抑止力として巨大戦艦の存在を逆に公表すべきという意見もあったらしい。
こうして誕生した「大和」は、太平洋戦争勃発直後の1941年12月16日に就役。だがすでに海の戦いは、大艦巨砲の戦艦決戦から空母が主力の洋上航空戦へと変化しており、活躍の場を見出すことができなかった。
そして戦争末期まで温存されたが、1945年4月、天一号(てんいちごう)作戦の一環として、沖縄に座礁して砲台となるために軽巡洋艦「矢矧’(やはぎ)」や駆逐艦など11隻を従えて出撃。その往路の1945年4月7日、アメリカ艦上機部隊に捕捉され、坊ノ岬沖(ぼうのみさきおき)海戦において爆弾7発、魚雷10本を受けて沈んだ。他に「矢矧」と駆逐艦4隻も戦没。戦死者は「大和」だけで2740名と伝えられる。なお、アメリカ側の損害は損耗13機で戦死・行方不明者は13名にすぎなかった。