家康との一戦へ駆り立てた長宗我部盛親の「焦燥」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第25回
■春日局の縁戚である盛親の最終的な選択
元親は信長との同盟時に利三の異父妹を正室とし、数多くの子どもをもうけたと言われています。長男信親(のぶちか)、次男親和(ちかかず)、三男親忠(ちかただ)、阿古姫(あこひめ)、そして四男に盛親などです。
また利三の兄の石谷頼辰(いしがいよりとき)は、元親に仕えて信親と共に戸次川(へつぎがわ)で戦死しています。その頼辰の娘と信親の間に生まれた娘が盛親の妻となっているため、利三との血縁はより濃いものになっています。
盛親が大名復帰活動を行っている間、後に春日局(かすがのつぼね)となる利三の娘ふくが徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母に任命されています。春日局は家光が三代将軍となるころには、大奥の整備や朝廷との外交を取り仕切るようになり、松平信綱(まつだいらのぶつな)や柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と共に厚い信任を得るようになります。
このように徳川家と非常に強い縁故が生まれつつありましたが、盛親はこの血縁を無視するかのように大坂城へと走ります。
そして、大坂冬の陣では、有名な真田丸を信繁たちと共に守り幕府軍に損害を与え、夏の陣では八尾・若江の戦いで藤堂隊を潰走(かいそう)させるなど指揮官としての実力を見せています。しかし、最終的に豊臣家は敗れ、盛親は京の六条河原にて斬首され、長宗我部家の直系は途絶える事になりました。
一方で、春日局の縁者は姪の祖心尼(そしんに)や外孫の堀田正盛(まさもり)のような遠い血縁のものでも登用されています。
■焦らずに待つ事は難しい
盛親は改易された後、頼みにしていた井伊直政が死去してしまい厳しい状況に追い込まれていました。1606年に立花宗茂は1万石の大名に列し、その他の諸侯も大身旗本に登用されていく中、冷静な判断を下すことも難しくなっていったと思います。
現代であれば、同僚が出世していく中で役職もないまま取り残されていく感じ、もしくは大学の友人たちが大手の就職先が決まっていくなか、未だにエントリーシートを書いている状況に似ているかもしれません。
もし、盛親が大坂の陣で徳川方として参陣し武功を挙げて幕府に仕官できていれば、後に春日局の引き立てにより譜代並みの扱いを受けられていた可能性があります。しかし、焦りは禁物という言葉がありますが、その後に好機が訪れるかどうかは、結果を見てからでしか分からないのが現実です。
その一方で、大坂の陣における盛親の活躍が、長宗我部家の名を立花家などの復活した諸侯よりも有名にしたのは間違いないと思います。
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