「屠龍」の性能向上を目指した傑作:双発戦闘機【キ96】
「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第7回】
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第7回は、双発複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の性能をさらに向上させるべく開発された単座の双発戦闘機で、相応に優れた性能を示したにもかかわらず、陸軍の方針で量産化されなかった不世出の名機キ96である。

キ96の試作3号機。「屠龍」に比べてより洗練されたデザインとなり、性能も向上していたにもかかわらず、量産されることなく終わった。
1930年代後半、世界の航空界では、双発戦闘機が注目されるようになった。確かに双発戦闘機は、ドッグファイト(格闘戦)能力では単発戦闘機に劣る。しかし運動性能に頼ったドッグファイトに代わって、エンジン出力に頼るヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)が発案され、エンジン出力が大きい双発の高速機なら、この戦い方で単発戦闘機に対抗できるのではないかと考えられた。
他にも双発化のメリットはあった。機体が大きいので燃料搭載量が増え、その結果、長時間・長距離の飛行が可能となって長距離爆撃機の護衛や、敵領空深くに侵攻しての航空優勢の獲得もできる。ペイロード(搭載量)が大きいのでの爆弾やロケット弾を搭載し、軽爆撃機の代わりとしても運用可能だ。
このような事情を背景として、日本陸軍は川崎航空機にキ45改を開発させ、太平洋戦争勃発後の1942年2月、同機は二式複座戦闘機「屠龍」として採用された。しかし下馬評とは異なり、単発戦闘機と互角レベルで空戦を戦える双発戦闘機は世界的にも少なく、「屠龍」もやはり単発戦闘機との戦いには苦戦を強いられた。
とはいえ、双発戦闘機は4発重爆撃機の迎撃には適しており、折しも、アメリカはB-17やB-24、そして後にはB-29といった4発重爆撃機を多数、実戦に投入するようになった。
こうした背景も影響して、日本陸軍は1942年8月、川崎航空機に対し「屠龍」の性能向上型の開発を要請。そして「屠龍」の運用経験に基づいて後席は不要と判断し、その分の機体重量の軽減を求めた。
これを受けた川崎航空機では、土井武夫(どいたけお)技師を設計主務者に据えて、双発単座のキ96として開発を進め、1943年6月に設計を終え、同年9月に試作第1号機をロールアウトさせた。
その後、3機が試作されたキ96は、当時の日本の航空エンジン技術の限界でアメリカやイギリスのそれらに対して馬力面で劣っていたにもかかわらず、可能な限り出力向上が図られたエンジン、優れた機体設計による空力的改善や軽量化により、「屠龍」の弱点をかなり克服した優秀機として仕上がっていた。そして、試験飛行においても優れた性能を示したのだった。
ところが陸軍は、開発当初には幾分かは考えられていた4発重爆撃機対策よりも、相も変わらず本機を単発戦闘機と比較して劣る面も少なくないと判断。生産へと歩を進めることはしなかった。しかし、やがて始まることになるB-29との戦いにおける、キ96の原型ともいえる「屠龍」の奮戦力闘を鑑みると、もし本機が生産のうえ部隊配備されていれば、B-29迎撃戦を幾分かは有利に進めることも可能ではなかったかと悔やまれる。