縄文時代の「縄文」という名には名づけ親がいた⁉
今月の歴史人 Part.1
だれもが教科書で習った「縄文時代」の歴史。この「縄文」という名前には由来がある。ここでは名前に関する歴史を紹介していく。
■外国人に名付けられた「縄文」という名前

エドワード・モース博士。
大森貝塚に立つ像。モース博士はアメリカの動物学者で、来日し東京帝国大学に2年間務め、日本の人類学・考古学の基礎づくりに貢献した。
縄文時代は、なぜ縄文とよばれるのか?
そこには、明治のはじめに来日した外国人がかかわっているのである。その人物とは、東京帝国大学で生物学を教授していたエドワード・モースである。
モースは日本に進化論を教授したほか、日本各地を旅行しながら、様々なスケッチを残し、生物標本から羊羹(ようかん)の缶詰まで、様々な品物をアメリカに持ち帰った。これの標本や当時の品々は、現在はピーボデイ博物館でタイムカプセルのように大切に保管されている。
このように、モースは日本を愛し、科学者の目で貴重な記録を残したのである。さらに、関東大震災で、東京帝国大学の図書館が火災によって大きな被害を受けた時には、自らの貴重な蔵書を惜しげもなく、東京帝国大学へ寄贈しているのである。
モースのもう一つの大きな業績が、大森貝塚の発掘である。
大森駅近くの鉄路の車窓から貝塚を発見し、それを縄文人が残した貝塚と認識し、日本ではじめて考古学の正式な発掘調査が行われたのである。

大森貝塚
モース博士による大森貝塚の発掘は、日本初の学術的発掘であり、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれる。
現在でもJR大森駅のホームと駅の近傍の一角にモースの業績を記念して石碑が立てられている。また、モースは正式な発掘調査報告書を東京帝国大学の理学部から刊行している。後に日本語訳版も出版されているが、この報告の精緻な図面は、現在でも通用するもので、この報告書をこえる発掘報告書は、それ以降長く出版されることはなかった。
モースが、発掘調査報告書のなかで、出土した土器に縄目のような模様が施されていることから「Cord-marked Pottery」と表記したのが、まさに縄文土器なのである。
監修・文/武藤康弘