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豊臣政権ではなく家康を選んだ前田利長の「決断」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第24回

■豊臣政権の崩壊を早めた「決断」

 

 利長は秀吉や利家の遺言に沿わず大きく方針転換をします。混乱する豊臣政権での重責を放棄し、家康の進言に沿う形で大坂城を出て、自領の金沢へと帰還します。政権の中枢から離れるという「決断」は、徳川家の権勢を飛躍的に強める事になりました。これは間接的に、豊臣政権の崩壊を加速させました。

 

 そして、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利したことで、前田家は豊臣家の貴重な譜代大名から、同格であった徳川家に従属する外様大名の一つとなります。

 

 利長は服従の姿勢を示すために、旗幟(きし)不鮮明だった弟利政(としまさ)を訴え、母芳春院との面会を行わないなど身内に対しても厳しい態度を見せます。また、二代藩主となる前田利常(としつね)に秀忠(ひでただ)の娘を迎え、自身は早々と隠居するなど徹底的に対策を講じていきます。

 

 その結果、前田家は119万石にまで加増され、幕末まで続く加賀藩の基礎を築く事に成功します。しかしながら、現代における利長の評価は高いとはいえません。

 

「槍の又左」の異名を持ち、傾奇者として知られた父利家の勇猛な印象にそぐわない、非常に現実的な対応をしたことが戦国武将としてのイメージを低下させていると思われます。

 

■名より実をとる現実的「決断」

 

 利長は秀吉の統一事業における数々の戦いに参加し、九州征伐では蒲生氏郷(がもううじさと)と共に城を落とす活躍を見せるなど勇猛な武将としての一面もあります。しかし、秀吉死後の混乱の中で、冷静に状況を分析し、前田家の存続を優先した事が、後世のイメージの悪化を招いていると思われます。

 

 現代でも組織を存続させ従業員の生活を守るために、ライバル企業の傘下に入り子会社として生き残るという選択をした事例は多々あります。一概にこれを敗北と言い切ることはできません。

 

 もし利長が、五大老として大坂に残り豊臣政権を支え家康に対抗していれば、父と同様に勇猛な戦国武将という評価を得ていたかもしれません。但し、最終的には家康との政争に敗れ、毛利家や上杉家のように減封されていた可能性も低くはないでしょう。利長の「決断」が名より実を取る現実的なものだったことは間違いないと思います。

 

 ちなみに前田家は徳川幕府においても、御三家に継ぐ高い地位を得ています。これは幕府側が織田政権から続く前田家の希少性を利用しているように見えます。この結果を利長が予測していたとしたら、現代での評価も大きく変わるのかもしれません。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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