戦国時代の旅には必須?道中の安全を保障する“路次馳走”とは
戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~
戦国時代の神主・吉田兼見の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)から、戦国時代の知られざる日常をご紹介する当連載。今回は、兼見の父が安芸国へと長旅をするお話。あの明智光秀も心配のあまり引き留めようとしたそうですが、果たして無事に帰って来ることはできたのでしょうか…?
■安芸国・毛利輝元からの依頼
元亀2年(1571)11月28日、公卿で神道家の吉田兼見(よしだかねみ)にとって心配な出来事が起こります。その出来事のきっかけとなったのは、安芸国の戦国大名・毛利輝元(もうりてるもと)からの、ある依頼でした(ちなみに、この年の6月、輝元は偉大な祖父と言うべき、毛利元就(もうりもとなり)を亡くしています)。
毛利方の依頼というのは、吉田兼見の父・兼右(かねみぎ)に「安芸国厳島神社において、正遷宮(しょうせんぐう)が行われるので、下向して欲しい」というものでした。しかし、吉田兼右は永正13年(1516)生まれで、この時、55歳。現代ならば55歳というと「まだまだ若い」と思われるかもしれませんが、当時は「人間五十年」と言われた時代。とっくに亡くなっていても、おかしくはない年齢でした。
息子の兼見も日記『兼見卿記』(元亀2年11月28日条)のなかで、父のことを「御老身」と書いています。兼右が「老いた身であるので、遠くへの旅行は大変」ということは毛利氏も分かってはいたでしょうが、遷宮のために来て欲しかったのでしょう。
同日には、細川藤孝(ほそかわふじたか)と明智光秀(あけちみつひで)が兼見のところにやって来て、「兼右の今回の御下向は無用(必要ない)ではないか。最近、とても老衰されているではないか」と心配したとのこと。兼見もそれに「同心」(同意見)とありますから、父の身を案じる息子の気持ちが伝わって来ます。
「安芸国に下向するのは難しいのではないか」と、その後も、兼見は父に繰り返し言ったようなのですが、兼右は「先月から準備してきたんじゃ!」と反論して、その日の朝にとうとう出発してしまいます。老いていることは、ある程度は自覚していても、「まだまだ大丈夫」とはりきって頑張ってしまう、無理をしてしまう、そんなご老人は今でもいるのではないでしょうか。

老体である兼右の旅を、明智光秀も心配していた様子。(イラスト/nene)
■父を案じた吉田兼見の秘策“路地馳走”とは?
兼見は、梵舜(ぼんしゅん/兼右の次男。兼見の弟)や中間・人夫らと共に、東寺の辺りまで、兼右を見送ります。(大丈夫かな)―兼見は心中、父のことがずっと心配だったでしょう。
元亀3年(1572)4月1日に、兼右は都に戻ってきました。父子は四条口で久しぶりに対面することになるのですが、兼見は父を見た感想を「もっての他の御老衰、顔色が変わられている」と驚きをもって日記に記しています。長期の遠方滞在、都と安芸国の往復で、兼右は疲弊していたのでしょう。父の老衰は心配されましたが、先ずは無事に帰ってきたことは「大慶」(大いにめでたい)と、兼見は胸を撫で下ろしています。
実は兼見、父のことが心配で、これより2週間ほど前(3月14日)に“ある人物”に、ある事を依頼しています。父が近日中に帰ってくるということで、摂津国の荒木村重(あらきむらしげ)に使者を派遣して、「路次馳走」(ろじちそう)を頼んでいるのです(兼右らが兵庫に着いたら、送って欲しいと頼んだようです)。
「路次馳走」とは、例えば使者の安全な道の確保や宿舎の手配などをして無事に送り届けることですが、兼見はこれを荒木村重に頼んだのです。「三荷三種」を兼見は使者に持たせたようですが、父への贈り物が入っていたのか、それとも便宜をはかってくれる村重への礼物が入っていたのか。それは不明ですが、兼見は老齢の父を案じる「孝行息子」だったようですね。