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【特別対談 歴史研究者・小和田哲男×岡山市市長・大森雅夫】岡山繁栄の礎となった戦国武将たちから学ぶ岡山の〝これから〞<後編>

これからの岡山について歴史研究者・小和田哲男氏と岡山市市長・大森雅夫氏が特別対談


中国地方の大都市・岡山市 ── その礎を築いたのは戦国乱世を生き抜いた戦国武将たちであった。彼らの成した偉業を探りながら、これからの岡山について歴史研究者・小和田哲男氏と岡山市市長・大森雅夫氏が語らった。【前編はこちら】(取材・文/上永哲矢 写真/中野 理)


 

■宇喜多秀家への政権交代がスムーズに進んだ理由

 

【岡山市市長 大森雅夫】
おおもり まさお/1954年、岡山市生まれ。1977年に建設省に入省後、内閣、国土交通省などで様々な役職を歴任。2021年に3選し、岡山市のために尽力している。
【歴史研究者 小和田哲男】
おわだ てつお/1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。戦国時代史研究の第一人者。NHK「歴史探偵」など歴史番組に出演。NHK大河ドラマでも数多くの時代考証を担当。戦国武将に関する著書多数。2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証担当。

 

──岡山に拠点をつくり町の基盤をつくった宇喜多直家が病死して11歳の秀家が跡を継ぎますが、宇喜多家では大きな混乱もなく、比較的スムーズに世代交代したようですね。

 

小和田 これは、ひとつには秀吉が宇喜多直家に対して恩を感じていたことが大きいと思います。信長の存命中、播磨(はりま)攻略に苦戦を強いられた秀吉に協力したのが直家。そのおかげで秀吉は備中まで進出して備中高松城の水攻めまで漕ぎ付けたんです。そうしたなかで直家が病死して、秀吉が後見するような形で秀家が跡を継いだ。秀家の「秀」も秀吉から与えられた名前ですし、秀吉の養女・豪姫(ごうひめ/前田利家の娘)が秀家に嫁いでいます。秀家は秀吉から相当に可愛がられて育ったのでしょう。

 

大森 急死した直家ですが、秀吉に従うなかでも、宇喜多を大きくしたいという志を一貫して持っていた。備前47万石は秀家に託した、秀吉のもとで力を発揮できるよう、あわよくば天下を治められるようになってほしいと願ったと思えるんです。

 

小和田 岡山城が近世城郭へと改修され、今のような規模になったのは秀家の時代です。秀吉の指示であったものの、慶長2年(1597)まで8年間かけての大改修です。その天守は信長の安土(あづち)城天守に似ていたと伝わります。当時、織田軍・豊臣軍の資金源は堺(大阪府)にあり、そこから瀬戸内海を通じて物流が動いていましたから、西国の中継点でもある岡山は重要視されたのでしょう。

 

──慶長5年の関ヶ原(せきがはら)の戦いで西軍の主力になった秀家は、改易されてしまいました。秀家が西軍についた理由とは?

 

小和田 改易され、史料が乏しいため秀家がどういう武将だったのかはわからないことのほうが多いんです。ただ、秀家は豊臣政権の五大老にまで取り立てられました。秀吉に対する恩を強く感じていて、その先陣を切るようなかたちで西軍の主力として戦ったのは確かでしょう。

 

大森 秀家は関ヶ原で敗れたあと、島津氏を頼って薩摩に落ち延びていいます。島津も牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿(かく)まったそうです。結局、3年後に発見されて八丈島へ流されてしまいますが。家康が亡くなった元和2年(1616)に刑が解かれたのですが、大名への復帰を勧められても断って八丈島に留まったというんですね。秀家を匿った垂水市と八丈島とは「宇喜多秀家☆フェス」をともに開催するなど仲良く交流させていただいています。私も八丈島へ行き、秀家が暮らしていた居宅跡を訪ね、墓所にも参拝しましたが感慨深かったです。もらった握り飯を家臣に分け与えるなど優しさが滲み出るような話も現地には伝わっています。

 

小和田 秀家は影が薄い印象もありますが、秀吉の支援のもと20年近くも岡山を治め、今の岡山の町の基礎をつくった。直家とともに永遠に名前が残る存在だと思います。

 

■初代岡山藩主・池田光政 その生い立ちと政治姿勢

 

備前国岡山城下図
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報が精密に描かれている。街の区画などは宇喜多時代に整備され、それを引き継ぎ広げたものだった。(岡山大学附属図書館蔵)

 

──関ヶ原の戦いの後、2年間は小早川秀秋(こばやかわひであき)が統治して、岡山城がさらに拡張されました。そして江戸時代には岡山藩が生まれ、これを徳川幕府は池田氏に与えましたね。

 

小和田 小早川秀秋が21歳で世を去って御家が断絶したことで、姫路藩藩主の池田輝政(いけだてるまさ)の次男・池田忠継(ただつぐ)が岡山に入城します。その後を弟の忠雄(ただお)が継ぐのですが早世。従兄弟の池田光政(みつまさ)が鳥取から入封します。それからは光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を明治時代まで治めます。これは徳川家康が、自分の娘婿である池田輝政の親族を重んじたという事情があります。輝政の継室は家康の次女にあたる督姫(とくひめ)です。この結婚は秀吉の意思でもあったのですが、秀吉の没後も徳川と池田は良好な関係が続き、外様でありながら姫路と岡山という西国の要地を任されるなど優遇されました。広島には福島正則(ふくしままさのり)が入りましたが、やはり外様扱いで、すぐに潰されてしまったのとは対照的です。その池田光政ですが、徳川秀忠(とくがわひでただ)の養女・勝姫と結婚して徳川と血縁関係になり、それが領地安泰につながります。光政といえば、学問に非常に力を入れた藩主ですね。

 

大森 とくに心学(しんがく/陽明学)に傾倒し、熊沢蕃山(くまざわばんざん)という学者を重用して、湯島聖堂よりも早く岡山藩藩学や閑谷(しずたに)学校という藩校を開いて岡山藩初期の藩政確立に取り組んでいくんです。彼がなぜ陽明学に傾倒したのか。実は光政も宇喜多秀家と同じく父親を早くに亡くし、8歳で家督を継いでいるんですね。当然、家臣がサポートするんですが、彼なりにどうやって国を治めていくか模索するなかで陽明学に出会う。これは明の学者、王陽明が創始した学問でして、その教えに「知行合一(ちぎょうごういつ)説」という、知ることと行うことは表裏一体。知識があっても行動が伴わないのは知らないことと同じである、というものがあります。光政はこういった教えを大切に「安民治国」という目標を掲げて新田開発・治水対策に打ち込みました。天然の堀でもあった旭川がたびたび氾濫するので、放水路として百間川(ひゃっけんがわ)が整備され、これが2代目の綱政(つなまさ)の時代まで継承されます。その治水対策の成果として大名庭園の後楽園(こうらくえん)ができていきます。

 

小和田哲男氏

 

小和田 先ほどの熊沢蕃山は岡山城下の洪水対策、治山・治水・利水のために植林事業を行った人でもありますが、やはり名君と呼ばれる藩主のもとには、そういった名臣が必ずいます。それは光政のような藩主の意志あってのもので、ひとえに領民を水害から守ろうという部分に力を入れていたのだと思います。そのほかにも光政は医療事業にも熱心に取り組んでいますね。承応3年(1654)の承応大洪水の際、被害を受けた領民を救うため、医療・福祉に躊躇なくお金をつぎ込んでいます。これは妻の勝姫が母・千姫(せんひめ/徳川秀忠の娘)に頼んで、資金を援助してもらったことがあったと思われます。

 

大森 今のコロナ禍をはじめ、現代にも通じる政策ですね。有事の際に必要な施策を躊躇なく行うという姿勢は、私も政治に携わる人間として本当に見習いたいと常々思っています。当時、岡山藩の年間予算は5万両といわれましたが、承応大洪水では4万両を借りたそうです。藩の財政も苦しくなり、閑谷学校も廃される動きが起きましたが「閑谷学校は残して、教育の重要性を守ってほしい」という光政の考えにより維持されることになりました。岡山市には光政の名に由来する「光津」「政津」などの地名が残っており、光政を慕う表れだと思います。

 

小和田 そのような善政に加え単なる外様ではなく徳川の親藩に近い位置づけで、家康・秀忠に始まる将軍家との縁も強かったのが池田氏が続いた要因でしょうね。

 

■令和の大改修を終えて岡山のまちがめざすもの

 

現在の岡山市街
72万人の人口を有し、岡山県の中心として栄える街となっている岡山市。現在では高層ビルが立ち並ぶ中心部と閑静な田園や中山間地域が共存する西日本有数の都市になっている。

 

──令和の大改修で岡山城天守がリニューアルされました。小和田先生、ご覧になっていかがでしたか。

 

小和田 内部の展示物にも工夫が凝らされてとても見応えがありました。街のシンボルとして大切にされていて、後楽園からの天守の眺め、旭川沿いからの岡山の眺めもすばらしいです。白亜の姫路城とは対照的で、岡山城は漆黒が美しいですね。白漆喰よりも金箔瓦が映えて、私は大好きな城です。

 

大森 天守の展示にあたっては監修の磯田道史先生に、第一に宇喜多直家をはじめとする城主たちの人物像にスポットを当てていただきたいとお願いをしました。そして、それを支えた女性の存在。おふく、豪姫、勝姫といった奥方の助けがあって、直家も光政も名君になれた。これらの展示も5年ごとに見直そう、マイナーチェンジを続けつつ変わっていこう、我々も勉強しながら発信し続けていこうという計画です。

 

岡山市長・大森雅夫氏

 

小和田 ところで岡山に宇喜多直家の銅像はないそうですね。私は静岡の地元に今川義元の銅像がないのを残念に思って、自分が言い出しっぺになって像の設置に取り組んできましたが、ようやく2020年に竹千代(家康の幼少期)像の隣に完成しました。それも義元の人物像の見直しが近年盛んになったからです。今までは悪人として知られていた直家も岡山の恩人という見方がされ、地元で銅像を立てるくらいの流れになることを願っています。

 

大森 我々も、参考にしてよく考えてみたいと思います(笑)。もうひとつ、五大老の中で大河ドラマになってないのは宇喜多秀家だけなのです。地元でも宇喜多氏を全国の人に注目していただけるよう、実現に向けて一所懸命に取り組んでいきたいと考えています。また、歴史だけでなく将来にわたって岡山市が中四国圏域をリードするような存在になることを目指しています。小和田先生には今後とも、ぜひお力を貸していただきたいです。

 

小和田 もちろん! 何か力になれることがあれば嬉しく思います。

 

【公式HP】https://okayama-castle.jp/

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