織田信長や豊臣秀吉ら戦国武将が名づけた「地名」の成り立ち
今月の歴史人
日本には様々な地名が存在し、歴史を重ねている。地名の由来のなかには戦国時代に、戦国武将たちが縁起を担いだり、夢を込めたりしながら名付けたものが存在し、現代も受け継がれている。織田信長、豊臣秀吉、加藤清正らがそれぞれの思いや立場で名付けた地名の由来と歴史に迫る。
戦国時代に縁起をかつぎ
名が付け変えられた地名

織田信長像
岐阜城が建つ金華山の麓に立つ像。信長はこの地で「天下布武」を唱え、天下統一に向かって躍進していく。
室町時代に入ると、武将たちが居城を築いて旧名を廃し、新たな名前を付けることも多くなっていった。戦国時代になると、織田信長が命名した「岐阜(ぎふ)」や豊臣秀吉命名の「長浜(ながはま)」、加藤清正の「熊本」などがそれである。「岐阜」から見ていこう。
地名変更の発端は、信長が斎藤道三(どうさん)の息子・龍輿(たつおき)の居城であった稲葉山城を攻め落としたことに始まる。永禄10年(1567)のことであった。信長の城攻めに際し、斎藤氏の有力家臣・稲葉良通(よしみち)ら西美濃三人衆が、揃って織田家に内通したことも敗因の一つだったといわれる。
ともあれ戦いを征した信長は、稲葉山城に拠点を移し、古い縄張りを壊して新たに城を築いた。同時に、城の名前も変えようとしたようである。この時、信長に命じられて名前を考えたのが、尾張の政秀寺(せいしゅうじ)を開山した沢彦宗恩(たくげんそうおん)であった。ここで宗恩が信長に提案したのが、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3つの案だ。
最初の「岐山」とは、周が殷(いん)王朝を滅ぼして新王朝を打ち立てたことにちなむ縁起良い地名であった。いずれの名にも、峰が2つに別れるところを意味する「岐」が付けられていたのがミソで、信長が必ずや気にいると信じ切っていたようだ。この中から信長が選んだのが「岐阜」で、大きい、あるいは丘を意味する「阜」を選んでいる。信長らしい選択というべきだろう。「岐」と「阜」を合わせれば、左右を見分けることのできる大きな丘を意味することになる。城に登って見下ろせば、東西、つまり左右に濃尾(のつび)平野が一望のもとに見下ろせるわけだから、信長にとって願ってもない名前だったのだ。

岐阜城
稲葉山城と呼ばれた斎藤氏の居城を信長は岐阜と改めた。「岐山」という周が殷王朝を滅ぼして新王朝を打ち立てた地にちなむ縁起良い岐に、峰が2つに別れるところを意味する阜を合わせ、「岐阜」と名付け変えた。
また、滋賀県の長浜も、戦国武将羽柴秀吉が名付けた地名である。天正元年(1573)のこと、浅井長政攻めに功績のあった秀吉が、信長から浅井氏の旧領・今浜(いまはま)を与えられたのが始まり。秀吉はここに城を築いたが、その城名を決めるに当たって「長」の字が入るように工夫した。旧名である「今浜」では、今だけしか繁栄見込まれそうもない。これを案じて、「長く」繁栄が続くようにとの願いが込められたからと見られている。信長に忖度し信長の「長」をとって付けられたと見なす向きもある。

豊臣秀吉と石田三成
長浜駅前に立つ秀吉の右腕として働く石田三成との出会いの場面を再現した銅像。長浜の名のとおりふたりの関係は長く続いた。

長浜城
天正6年秀吉は城主としての地位が長く続いてほしいという願いをこめて領地の「長浜」と名付け水城を築いた。城内へ直に船が出入りできたという。
熊本は清正が慶長12年(1607)に城の完成を祝うとともに、それまでの「隈本(くまもと)城」から「熊本城」に改称したものである。「隈」の字は、こざとへんに畏(かしこ)まると書くが、武士が「畏」るのが相応しくないというのが大きな理由だったとか。「奥まったところ」との意が含まれていたことも問題だったのかもしれない。

熊本城
清正が城主を務めた城。熊本の名はこの城の名に勇猛な印象を与えるために「熊」の字を入れたことに由来するという。

戦国武将が名付けた地名
座を廃して市が立つ時代
定例日が地名となっていく
戦国時代になると、織田信長をはじめとする各地の戦国大名が、自身の支配地に市を設けて、新たな経済政策を推し進めるようになっていく。それまで商売を独占してきた「座(同業者組合)」を解散させるなどの規制緩和を進めて、さらなる商業発展を目指そうとするものであった。
毎月2の付く日に市が催されたことを示す二日(ふつか)市(岡山県倉敷市や福岡県筑紫野市)や4の付く日に催された四日(よっか)市(三重県四日市市)など、利用者にとってわかりやすい地名であったことも特徴的である。聖徳太子の時代から催されていたという八日(ようか)市(滋賀県東近江市)や鎌倉時代中期から催されていた廿日(はつか)市(広島県廿日市)などの他岩手や島根、岡山、愛媛、新潟、石川などにも同様の地名が数多く残されている。
埼玉県鴻巣市の「鴻巣(こうのす)」は、戦国時代以前に成立した地名である。江戸初期の儒学者林羅山(はやしらざん)が著した『文集』によれば、当地に樹神と称えられた大樹があり、鵠(白鳥)が巣を作って卵を産んだ。それを飲み込もうとした大蛇を嘴(くちばし)で突いて殺してしまったことで以降、神が人々に害を及ぼさなくなったという。白鳥が害を取り除く益があるとみなされるようになり「鴻巣」と呼んだという。
監修/谷川彰英・文/藤井勝彦