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奈良時代に律令制度とともに進化した「地名」の成り立ちを紐解く

今月の歴史人


大和朝廷の土地開発にちなんだ地名は、現在も残り、私たちの生活の近くに存在する。奈良時代、地名の由来は当時の律令制度に基づくものが多かった。制度の進化とともに、地名も変わり、そしてまた発展していった。ここでは古代に生まれた地名の由来とその紐づく律令制度について紹介していく。


 

古代の部曲が律令制の戸籍
律令の人頭税に用いられ把握

 

物部守屋

物部守屋
奈良天理市あたりが本拠。蘇我馬子との丁未の戦以降、力を失う。「物部」がもののふとなり武力を表す。伴造の下に品部が置かれ、居住した先に同じ物部となり地名に残った。(国文学研究資料館蔵)

 

 ヤマト王権による統一国家が目指されていたのは、3世紀中頃あるいは4世紀に始まる古墳時代からである。王権と協調関係を保ってきた地方豪族たちは、王権から国造に任じられたものの、半独立状態を維持していた。これが飛鳥(あすか)時代になると、律令(りつりょう)制のもと、律令国として中央から官吏が国司として派遣されるようになっていく。

 

 大宝律令が制定された8世紀には58の国と3つの島が、9世紀には66の国と2つの島が律令国に定められている。そこに、国司が政務を執るための施設(国庁)が置かれた。これが国府で、今もかつて国府のあったところに、国府ゆかりの地名が残されている。

 

 大阪府藤井(ふじい)寺市にある国府の地名は、まさにそれに該当。いうまでもなく、河内(かわち)国の国府があったところで、鈴鹿(すずか)市国府町(伊勢国)、笛吹市春日居町国府(甲斐国)、市川市国府台(こうのだい)(下総国)なども同様である。

 

 また、日本が唐に倣って律令国家としての体制を本格的に整え始めたのは、7世紀も後半に入ってからのこと。天武天皇10年(681)に天皇が「律令制定の詔(みことり)」を発したのが始まりで、大宝元年(701)の大宝律令の制定によって、ほぼ完成されたと見られている。皇極天皇4年(645)に始まった国政改革(大化の改新)の頃までにはすでに戸籍法が敷かれていたが、条里(じょうり)制という古代の土地区画制度も新たに整えられた。この整備が完了したのが、天平15年(743)のことであった。その概要を見ていくことにしよう。

 

天武天皇

天武天皇
天智天皇亡き後、子・大友皇子との皇位継承にまつわる壬申の乱に勝利。味方につけた豪族など、郡司や郷司を務めた家が武家となり古代からの地名が受け継がれる。(国文学研究資料館蔵)

 

端を一条として東か西に
一里も南北として順につける

 

 まず、5 つの「戸(こ)」を集めて「保(ほ)」とし、その「保」をさらに10集めたものを「里」と呼んだ。当然のことながら端数が出ることもあるが、その場合、はみ出た「戸」の集まりを「余戸(あまと)」と呼んで区別したようである。これが転訛したのが「余部(あまつべ)」や「余目(あまつめ)」で、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の意宇郡や島根郡などの項にも、「余戸の里」として記されている。今でも兵庫県美方郡香美町香住区に余部の地名が残されている他、山形県北部にも、余目村(後に余目町)があった。

 

 また、1町(109m)四方の正方形の区画を「坪(つぼ)」と呼び、これを縦に6つ、横に6つ並べた区画を「里(り)」と呼んだ。基本となる「坪」が並ぶ順も、横に一里、二里、三里、縦に一条、二条、三条とし、明確に位置関係を示せるよう工夫している。

 

律令は多岐にわたる内容を持ち、条里の規定は伝令の中にあった。『地名の由来を知る事典』武光誠著より

 

その名残が、阿南(あなん)市下大野町の三条や、埼玉県本庄市の十条などに残っている。前述の「坪」も、阿南市長生町の柳ケ坪や徳島市八万町の大坪、美馬市美馬町の八ノ坪、小松島市立江町の中ノ坪など、今でも各地に数多く見いだすことができる。その中でも条里地割の名残を明確にとどめているのが、讃岐平野の多度(たど)郡と那珂(なか)郡である。

 

 また、律令制における税制の租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)なども、地名に反映されることがある。調とは戸単位に課せられた人頭税のことであるが、東京都調布市がそのゆかりの地名である。

 

 もともと当地は、古代の高句麗(こうくり)から渡来人が持ち込んだ麻の栽培が盛んだったところで、これを多摩川の水で晒して布を織り、それを調(税)として納めたところから調布と名付けられたようだ。

 

 もうひとつ気になるのが、渡来人が多く住んでいた奈良県明日香(飛鳥)の地名。「アスカ」とは、古代朝鮮語で村のことを言い表す「スカ」に接頭語の「ア」がついたものといわれ、渡来人による開発が進められたと見られることが多い。ただし、川の中洲などを言い表す「ス」に、場所を示す「カ」と接頭語の「ア」が付けられたとする説も見逃せない。いずれにしても、由来そのものから歴史を垣間見ることができる興味深い地名である。

 

監修/谷川彰英・文/藤井勝彦

『歴史人』1月号「地名の歴史をたどる」より

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