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宇喜多氏・陶氏「下剋上」の軌跡

戦国武将の領土変遷史㉓

足利将軍殺害の赤松氏から伝播し、浦上氏、宇喜多氏と続く下剋上

陶隆房
大内家の譜代筆頭で幹部中枢を構成していた一人。出雲遠征の提言をめぐって大内義隆と対立し、ついに謀反に及ぶ。国文学研究資料館蔵

 応仁の乱後、下剋上の機運は西国でも高まってくる。播磨国の守護大名は、赤松政則(あかまつまさのり)であった。6代将軍足利義教(あしかがよしのり)を嘉吉の乱で殺害した赤松満祐(みつすけ)の一族だった。その重臣が浦上(うらかみ)氏で山城(やましろ)守護代の則宗(のりむね)であった。則宗は守護代を越える立場にあり室町幕府とも密接な関係を築いていた。

 

 赤松氏と隣国但馬国(たじまこく)の山名氏が激突するのが文明15年(1483)12月。場所は播磨(はりま)と但馬国境にある真弓(まゆみ)峠。その戦で、赤松政則は大敗北、逃亡の憂き目をみる。

 

 この敗北に怒ったのが則宗だった。彼は他の赤松家臣(小寺/こでら、依藤/よりふじ、中村、明石)らと共に、政則の3カ国守護職を廃し、その代わりに、有馬慶寿丸を守護に就けることを幕府に願ったのである。

 

 有馬氏は、赤松一族だ。一見すると、浦上則宗らの行為は、下剋上のように見える。しかし、浦上氏にしても、政則に代わって自らが、守護に就任したわけではない。あくまで、赤松一族の者を擁立しているのだ。

 

 家格の問題があったのだろう。則宗にしても、政則をその幼少期から養育していたと言われている。善意に解釈すれば、則宗も好き好んで、当主・政則を追放しようとした訳ではないだろう。政則が合戦で大敗北しなければ、このような行動に及ぶ事はなかったはずだ。御家(赤松家)のために、断腸の想いで有馬氏を擁立するために動いたのではないか。

 

 播磨の西隣・備前(びぜん)国においても、騒乱はあった。備前国の土豪・宇喜多直家(うきたなおいえ)は、数々の他領主を謀略をもって倒し、台頭したことで有名である(それらの謀殺は後世の創作の可能性も高いが)。

 

 直家は、浦上宗景(むねかげ)に仕えたとされるが、近年においては、宗景とある程度、対等な関係にあったのではないかと言われている。

 

 天文20年(1551)、直家は、浦上宗景の命により、中山備中(なかやまびちゅう)の守(かみ)勝政(かつまさ)の娘を妻とする。中山氏は、沼城(岡山市東区)を本拠とする土豪であった。

 

 ところが、浦上氏はこの中山氏を討伐しようとする。中山氏が浦上宗景を蔑(ないがし)ろにした事が原因だとされる。中山備中守と嶋村豊後守盛実(貫阿弥)に謀叛の疑いがあったので、浦上氏は討伐を決めたという。

 

 この時、宇喜多直家は、嶋村豊後守の謀叛の証拠となる書状を取り出し、豊後守は祖父(宇喜多能家/よしいえ)の仇であるので、ご命令があれば、すぐに討ち取る旨を伝えたとされる。また、中山備中守は、自分(直家)の舅(しゅうと)であるが、主君(浦上宗景)のためならば討つと述べたと言われる。直家は、沼城の側に茶亭を造り、そこに中山備中守を招き、殺害したという。

 

 一方、嶋村豊後守は、沼城を攻めようと馳せ参じるが、宇喜多氏に城門の中に誘い込まれて、殺害された。直家は、沼城や、中山氏と嶋村氏の所領の大半を与えられたという。宗景の多くの家臣が、直家のもとに馳せ参じた。

 

 そして、天正2年(1574)3月、直家は宗景と決別。戦いは、宗景にとって不利に進行し、翌年10月には、宗景の居城・天神山城は陥落。宗景の復権は叶わなかった。

 

 そして下剋上の波は、ついに大内氏にも波及する。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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