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家康が見せた「父親」としての顔

「歴史人」こぼれ話・第35回

信康とは真逆の性格だった秀忠

 

 信康が長命であったなら、徳川幕府の2代将軍となった可能性が高いが、現実には家康3男の徳川秀忠(ひでただ/母は西郷局/さいごうのつぼね)がその後継となる。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)は秀忠のことを「仁孝恭謙(じんこうきょうけん)の徳があり、何事にも父君(家康)の教えを守り、ご意向に背くことはなかった」と記す。信康とは真逆の性格だったと言えよう。

 

 秀忠と言えば、関ヶ原合戦(1600)に間に合わず、家康に叱責された逸話で有名だが、それでも2代目に秀忠を選んだのは、彼に「徳」が備わっていたからではないだろうか。

 

 息子たちとの関係を見ていると、家康は、乱暴者で自らの意に反した子供を遠ざける傾向がある。家康6男の松平忠輝(まつだいらただてる/母は茶阿局/ちゃあのつぼね)もその一人である。忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の娘・五郎八姫(いろはひめ)と結婚し、信濃川中島や越後高田の城主を歴任するも、大坂夏の陣(1615)に参戦する際、将軍の旗本2人を殺害し、かつ戦に遅参するという事件を起こす。

 

 元和2年(16164月、駿府城にて家康は死去することになるが、忠輝を病床に呼ぶことはなかった。忠輝は父の病状を案じ、駿府まで駆けつけるも、家康は忠輝に怒り心頭で、城中に入れることはなかった。そして家康の死後、忠輝は改易(かいえき)され、伊勢国朝熊(いせのくにあさくま)に流罪となる。

 

 その後、飛騨そして信濃諏訪へと移り、同地で死去する(1683)。時は既に5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の治世になっていた。家康は子に対して、父として厳しい顔を見せることの方が多かったのかもしれない。それは時代の影響もあっただろうし、家康自身の性格も理由としてあったのであろう。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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