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「徳川」改姓に見る家康のルーツの謎

史記から読む徳川家康⑪

 名門に通じる家格が証明されたことにより、家康の三河守任官が実現した。このときの様子を記す史料には「復姓」と記されているものもあり、もともと先祖が名乗っていた「徳川」に戻す、という体裁が取られたようだ。系図にあったのは「得川」だが、佳字である徳を用いた「徳川」となることも同時に認められた格好である。

 

 もっとも、このとき家康が認められたのは「源氏」姓の徳川ではなく、「藤原氏」の流れをくむ徳川氏、というものであった。そのため、しばらく家康は「藤原家康」を名乗ることになる。

 

 ちなみに、ここでいう「氏」や「姓」は、今日の感覚とは少し異なる。

 

 姓には、天下の四姓と呼ばれる「源平藤橘」がある。奈良時代から平安時代に繁栄した「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」という氏族を指す呼び名である。これらの姓は名門中の名門とされ、当時はこの四姓につながるものでなければ叙位任官は認められなかった。

 

  「源氏」や「平氏」が天皇から賜った氏で、同一の始祖から発した血族であるのに対し、氏から派生した親族で、地名などからとったものを苗字という。たとえば、「今川」や「武田」などは苗字だが、いずれも姓は「源」である。

 

 松平氏は松平郷という土地の名を由来とした苗字で、「賀茂」姓と考えられている。その一方で、家康の祖父である清康は「世良田」を名乗っている。これが本当だとすると、松平氏は源氏の一族である新田氏から分かれた流れということになる。清康本人は自身のルーツを「源氏」と考えていたのかもしれず、清康を尊敬していたといわれる家康も、この考えを踏襲していたとも考えられる。

 

 また、源姓ではなく藤原姓となったのは、勅許の仲立ちとなった公家の近衛前久の意向があったといわれている。家康のルーツは伝説に彩られた部分もあって、信憑性に欠ける史料の記述も少なくない。現在も研究は続けられている。

 

 いずれにせよ、藤原姓を名乗っていた家康は、のちに朝廷に源姓を名乗ることを正式に許されることになる。時期は不確かだが、少なくとも1592(天正20)年には「源家康」と署名している文書が確認されている。

 

 ちなみに、吉田兼右に賄賂ともとれる、毎年馬一頭を献ずると約束した家康だったが、三河守任官という目的が遂げられた後、まもなくして贈らなくなったという。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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