唐の群雄割拠時代を生きた秦瓊の波瀾万丈な人生─「中国で伝統衣装が最も似合う」と言われた俳優、イェン・クァンが演じた名将─
中国時代劇ドラマと史実
■群雄割拠の時代に李世民を支えた唐建国の功労者・秦瓊

昭陵の麓に秦瓊の墓と伝えられる小さな塚が残されている。
若手俳優は男女ともにイケメンばかり。それは日本でも大ヒットした『陳情令(ちんじょうれい)』に限った話ではなく、中国時代劇全体を通して言えることで、2013年に制作された『隋唐演義(ずいとうえんぎ) ~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~』も例に漏れない。
同ドラマの主演は、「天涯四美(てんがいしび)(時代劇四大イケメン)」の一人に数えられるイェン・クワン(厳寛)。彼が演じた秦瓊(しんけい)は隋から唐への動乱期に名を馳(は)せた実在の人物である。
同ドラマの原題は『隋唐演義』で、同じタイトルの原作本は『三国志演義』『封神演義(ほうしんえんぎ)』と並び、明の時代から愛読されていた長編小説である。
『三国志演義』がそうであるように、『隋唐演義』も歴史的な事実を背景としており、話は隋の2代目皇帝、煬帝(ようだい)(在位604~618)の苛政(かせい)に始まる。
五胡十六国(ごこじゅうろっこく)から南北朝の300年弱に及ぶ戦乱を終わらせ(589年)、ようやく天下統一を成し遂げたというのに、煬帝は民を休ませることなく、度重なる高句麗(こうくり)への遠征、東都洛陽(らくよう)や数々の離宮の建設、黄河と長江を結ぶ大運河の開削(かいさく)など、民を酷使し続けた。このため618年3月に起きた楊玄感(ようげんかん)の乱を皮切りに、中華の各地で武装蜂起する者が続々と現れ、後漢末のそれに比べれば短いながら、群雄割拠の時代が再来。秦瓊もそのなかの一人だった。
秦瓊については、歴史書『旧唐書』と『新唐書』にそれぞれ伝が立てられており、それによれば本籍は現在の山東(さんとう)省。生年は不詳だが、没年は638年。字(あざな)を叔宝(しゅくほう)という。
軍人となり、隋の将軍のもとで活躍するが、上官が反乱軍の李密(りみつ)に投降すると、秦瓊もそれに従った。
李密が群雄間の争いで決定的な敗北を喫すると、河南の王世充(おうせいじゅう)に降り、大将軍に任ぜられるが、どうしても性格が合わないことから、同じ境遇にあった程咬金(ていこうきん)(程知節)とともに、唐の李世民(りせいみん)(のちの太宗(たいそう)。在位626~649)のもとに身を投じた。
原作及びドラマのなかでは、秦瓊と程咬金は幼馴染の間柄。二人とも好漢たちとの交わりを好み、世情が不穏さを増すと、志を同じくする者たちと瓦崗寨(がこうさい)に集まり、隋からの離反を宣言した。
頭領には程咬金が擁立され、大魔国の混世魔王(こんせいまおう)と自称するが、三年も経過すると飽きがきて、頭領の座をあっさり李密に譲った。その李密が李世民に降ったことで、秦瓊もそれに従うが、実は秦瓊と李世民は過去に面識があり、李世民にとって秦瓊は命の恩人でもあった。
この縁から、秦瓊は李世民から重用されたというのが、原作及びドラマ中の展開だが、現実の秦瓊も李世民からの信頼篤(あつ)く、河南の王世充や河北の竇建徳(とう けんとく)ら他の群雄との戦いではしばしば先鋒を務め、味方の勝利に貢献した。
唐による中華統一が達成されたのは628年のこと。武の領域での最大の功労者は秦瓊と尉遅敬徳(うっち けいとく)の二人だった。
この二人の武威は生きた人間だけでなく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類をも恐れさせるレベルで、元の時代に著わされた志怪(しかい)小説『捜神広記(そうじんこうき)』の中に次のような話が見える。
ある時、太宗の夢枕に鬼神や魍魎が現れ、安眠を妨げることが続いた。それを聞いた秦瓊が進み出て、尉遅敬徳とともに不寝番(ふしんばん)を務めることに。
完全武装の二人が寝室の扉の前に控えるようになってからは、ポルターガイスト現象なども一切起こらず、太宗は安眠を取り戻すことができた。
けれども、このさきもずっと二人を不寝番にするわけにもいかず、代案として絵師に二人の絵姿を描かせ、それを後宮の左右の門に掲げさせたところ、それでも魑魅魍魎の侵入を防ぐ効果が認められた。

後世には、秦瓊と尉遅敬徳は門神として崇められた。
この故事から、後世には民間でも秦瓊と尉遅敬徳の二人を魔除け、門神として崇め、二人の絵を家や寝室の入り口に張るようになった。門神信仰はそれ以前からあり、「神荼(しんじょ)」と「鬱塁(うつりつ)」という兄弟神が用いられていたが、人びとには最初から神であった神荼・鬱塁より、実在した英雄のほうが親しみを持てたのかもしれない。

唐の太宗が眠る昭陵
王朝時代の中国では、功績抜群の臣下には死後、皇帝陵の近くに埋葬されることが許された。秦瓊ももちろんその対象で、現在も太宗の陵墓である昭陵(しょうりょう)の麓に秦瓊の墓と伝えられる小さな塚が残されている。墓碑などはないが、土地の住民の間ではその場所が語り継がれており、時を超えた人気のほどが垣間見える。