家慶・家定・家茂と「大奥」の関係
「将軍」と「大奥」の生活㉚
■家慶は十四人の男子をもうけるが大人になったのは家定のみ

【家慶と大奥の主要人物と子女】
父・家斉(いえなり)は実に26人もの男子をもうけたが、家慶はその次男であった。父の側室・お万(まん/契真院/けいしんいん)が、兄の竹千代を産んだが生後1年も経たず早世し、お楽(香琳院)が敏次郎(としじろう/家慶/いえよし)を産んだのである。お楽は御年寄上座に昇り、大奥で大きな力を得たが文化7年(1810)、家慶が18歳のときに病没した。
父・家斉が50年もの長期政権を布いたため、家慶が将軍職を継いだのは天保8年(1837)、45歳のとき。以後も家斉は大御所として影響力を持ったため、家慶の親政は父の没後から、ペリーが来航する嘉永6年(1853)に自身が亡くなるまでの12年ほど。家慶も父に倣ったものか、早くから子づくりに励み、十四男十三女をもうけている。
正室は楽宮喬子(さざのみやたかこ/浄観院/じょうかんいん)。有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の六女で、文化6年(1809)に結婚。家慶の長男竹千代(たけちよ)、次女優姫(ゆうひめ)、三女最玄院(さいげんいん)をもうけたが、みな夭逝(ようせい)する。家慶の将軍就任に伴って本丸大奥に移るも天保11年(1840)に46歳で亡くなった。
家慶の側室は8人が記録にある。お定(さだ/清涼院/せいりょういん)、おかく(妙華院/みょうかいん)、お美津(本寿院/ほんじゅいん)、おはな、お筆(ふで/珠妙院/しゅみょういん)、お金(きん/見光院/けんこういん)、お琴(こと/妙音院/みょうおんいん)、お津由(つゆ/秋月院/しゅげついん)である。
14人も生まれた男子はみな何故か病弱で、お美津(みつ/本寿院/ほんじゅいん)が産んだ四男の家定(いえさだ)だけが20歳を超えて存命し、将軍となっている。お琴は紀伊徳川家付家老の水野忠央(みずのただなか)の妹で、兄が幕政に参加するため大奥に送り込んだと噂された(『新宮市史(しんぐうしし)』新宮市編さん委員会)。
家慶時代の大奥女中では、上﨟(じょうろう)御年寄の姉小路(あねのこうじ/1810~1880)が知られる。老中の水野忠邦(みずのただくに)が大奥の経費節減を要求すると姉小路は忠邦が抱えている側室を例に出して、やり込めたという逸話がある。のちに14代将軍・家茂の御台所に和宮を迎えることになると、自ら京都に赴き、姪の観行院(和宮の母)を説得し、裏工作に奔走。その強い影響力を行使した。