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秀忠・家光と「大奥」の関係

「将軍」と「大奥」の生活㉗

■お江との間に二男五女をもうけ、側室を江戸に迎えなかった秀忠

【秀忠と大奥の主要人物と子女】

 家康(いえやす)の愛妾(あいしょう)・西郷局の子として生まれた秀忠(ひでただ)は11歳で母と死別。翌年の天正18年(1590)に12歳で上洛し、秀吉の養女(織田信長の孫)で6歳の小姫(おひめ)と縁組した。だが不幸にも小姫は翌年に死去する。

 

 秀忠の御台所(みだいどころ)として名高いお江(ごう/崇源院)は、秀忠に嫁ぐ前に2度の結婚を経験していた。いずれも秀吉の命令で、2番目の夫・羽柴秀勝(はしばひでかつ)は文禄元年に遠征先の巨済島(コジェとう)で病没した。文禄4年(1595)、秀吉は夫を亡くしたお江を秀忠へ嫁がせた。何としても豊臣と徳川の姻戚関係を成就させたかったようである。

 

 その甲斐あってか、秀忠とお江は二男五女の子宝に恵まれた。長女の千姫(せんひめ)は慶長8年(1603)、7歳で秀吉の息子・秀頼(ひでより)に嫁ぐ。千姫の妹3人も子々姫(ねねひめ)が前田利常(まえだとしつね)に、勝姫(かつひめ)は松平忠直(まつだいらただなお)、初姫(はつひめ)は京極忠高(きょうごくただたか)と、いずれも有力大名のもとへと嫁いでいった。

 

 お江は続いてふたりの男子を産んだ。家光(いえみつ)、忠長(ただなが)である。家光は周知のとおり、のちの3代将軍だ。歴代将軍の正室で将軍を産んだのは、お江が唯一で、ほかはすべて側室だった。五女の和子(東福門院/とうふくもんいん)は、元和6年(1620)に後水尾(ごみずのを)天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)。のちの明正(めいしょう)天皇を産んで中宮に立てられた。

 

 秀忠には他にふたりの男子がいた。慶長6年(1601)に長男として生まれた長丸(ちょうまる)は、その翌年に亡くなった(母は不明)。四男の保科正之(ほしなまさゆき/会津松平家初代)は乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女・静(浄光院/じょうこういん)との間の子だ。長丸の母は江戸城に迎えられることはなかった。

 

 秀忠が恐妻家であったと指摘されることが多いが、真相は分からない。勝姫・初姫・家光・東福門院は、お江の子でなく側室の子だったという見解(『春日局』福田千鶴)もある。江戸城にはお江を中心とした奥の制度が成立しており、幕政安定のため細心の注意が払われていた形跡がある。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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