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家宣・家継・吉宗と「大奥」の関係

「将軍」と「大奥」の生活㉙

■6代家宣は将軍就任に前後して精力的に子を成すが……

【家宣と大奥の主要人物と子女】

 宝永6年(1709)、実子のなかった綱吉の跡を継いだのは、綱吉の兄で甲府徳川家の綱重(つなしげ)の長男、家宣(いえのぶ)であった。長い紆余曲折を経て、48歳での将軍就任である。

 

 家宣は父が正室を娶(めと)る前に、身分の低い女中・お保良(ほら/長昌院/ちょうしょういん)に生ませた子であったため、当初は家臣の新見(にいみ)家に預けられていた。だが9歳のとき、世嗣として呼び戻され、17歳で父を亡くして甲府徳川家の家督を継承していた。

 

 左大臣・近衛基熙(このえもとひろ)の娘、煕子(ひろこ)とは延宝7年(1679)に結婚。夫婦仲は良く、長女豊姫(とよひめ)、長男夢月院(むげついん)をもうけるも、いずれも夭折(ようせつ)した。

 

 江戸城に入ってからはお古牟(こむ)の方(法心院)との間に二男家千代(いえちよ)が誕生。待望の男子であったが、その年のうちに死去。

 

 お須免(すめ)の方(蓮浄院/れんじょういん)も三男大五郎、五男虎吉(とらきち)を産んだ。ところが、この子たちも生まれて2年と経たず早世する不幸に見舞われる。

 

 残るは喜世(きよ/月光院/げっこういん)が産んだ家継だけとなったが、その成長も碌(ろく)に見守る暇もないまま家宣自身が病に倒れた。結局、将軍就任から4年目の正徳(しょうとく)2年(1712)、51歳で没してしまった。

 

■わずか8歳で世を去り八十宮との婚礼も幻となった7代家継

【家継と大奥の主要人物と子女】

 父・家宣の死によって、4歳で将軍職を継がざるを得なくなった家継(いえつぐ)。家継は家宣の侍講だった新井白石(あらいはくせき)から学び、幼いながら才能あふれる人物だったといわれている。彼には夢月院、家千代、大五郎という3人の兄と虎吉という弟がいたが前述の通り、みな早世している。

 

 母の喜世(きよ/月光院/げっこういん)は家宣の将軍就任前から寵愛を受けた側室だが、その前身は謎に包まれている。幼くして武家に奉公に出て、その縁で綱豊(のちに家宣)の桜田御殿に出仕し、見初められたという。

 

 家宣の妻のうち、喜世の序列は3番目で「三の御部屋」といわれた。ほかの子が次々と早世し、家継の母として喜世の権勢も高まっていく。実父や兄に身を慎むよう言っていたことから、分を弁わきまえた女性であったとみられる。正徳4年(1714)、月光院付きの御年寄(おとしより)絵島(えじま)が「絵島生島事件」を起こすが、喜世はこれを厳しく詮議(せんぎ)するよう申しつけ、彼女自身に累(るい)が及ぶことはなかったと考えられる。

 

 家継の御台所(みだいどころ)として、霊元院皇女八十宮(れいげんいんこうじょやそのみや)に白羽の矢が立ち、婚約者として縁組の準備が進められるが、家継は8歳の若さで病に倒れ、初の皇女の御台所は実現しなかった。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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