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大奥の女性たちが暮らした「お部屋」事情

「将軍」と「大奥」の生活㉘

■大奥の日常生活はいかなるものだったのか⁉

部屋子の絵。上格である親族や子供などがいっしょに暮らし「部屋子」と呼ばれた。仕事もしない半人前の立場だったので「お嬢様」と呼ばれた。都立中央図書館特別文庫室蔵

 御台所(みだいどころ)が日常生活を送っていたのは、大奥の北西方向の区画である。その中心が「新御殿(しんごてん)上段・御下段」と「御休息之間」で、「切形(きりがた)之間」を寝所としていた。また、御台所が将軍とくつろぐ部屋は「蔦(つた)之間」、2人の寝所は「御小座敷」であった。もっとも、御中臈(ごちゅうろう)が番をしているので、プライバシーなどあったものではなかったとされる。

 

 一方、奥女中たちの居住エリアは、大奥の東北方向にある「長局(ながつぼね)」である。長局は「一之側」から「四之側」まであり、一之側は上臈(じょうろう)、御年寄(おとしより)、御客会釈(おきゃくあしらい)、中臈(ちゅうろう)などの、二之側と三之側はそれ以下の御目見(おめみえ)以上の女中たちの、四之側は御目見以下の女中たちの部屋に当てられていた。

 

 長局の一棟は、十数部屋に分けられている。上臈や御年寄など重職に就いている奥女中は1人1部屋だったが、中~下位の奥女中は数人で1部屋を使い、部屋の入口には住人の名を記した紙が貼られていた。間取りは各部屋とも同じで、間口3間奥行7間(70平方メートル弱)の2階造りであった。

 

 なお、一之側には各々30坪ほどの庭もついていた。水道も自由に使えたので泉水(せんすい)、築山(つきやま)、石灯籠(いしどうろう)などが配置かれ、植えられている樹木も風流で、『定本 江戸城大奥』には向島(むこうじま)あたりの料亭の庭のようだと評されている。このように、高位の奥女中には立派な住まいが用意されていたことがわかる。

 

 ところで、大奥には幕府が直接雇用した女性のほか、高位の奥女中たちがポケットマネーで個人的に雇用する者たちもおり、「部屋方(へやかた)」と呼ばれる。御年寄の場合、「局」が1人、「合の間」が6人、「仲居」が3人、「たもん」が4人ほど、ほかにも「小僧」と呼ばれる少女や「五菜」と呼ばれる下男もいた。

 

 局は御年寄部屋のリーダーで、合の間は御年寄の身の回りの世話を担当し、仲居は配膳担当で、たもんは炊事などを担当、彼女たちは町人や農民の出身であった。

 

 大奥に勤めるには、御年寄など有力者の「部屋子(へやご/身分としては合の間)」として入るのが一般的で、しばらく部屋子として勤務したのちに認められれば、御次(おつぎ)など正規の大奥女中として採用された。こうした事情もあり、江戸の母親たちは娘の教育にたいへん熱心だったのである。

 

 そして、近年大奥のトイレ事情も明らかとなってきた。大奥の女性は身分ごとに自分専用のトイレを使っていた一方、小便器と大便器を組み合わせたトイレの存在が確認されている。これはつまり、将軍の滞在時間が長かったという証となる。しかも、こうした組み合わせのトイレが2箇所確認できることから、将軍以外にいったい誰が使ったのか、謎が謎を呼んでいるのである。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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