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秀忠・家光と「大奥」の関係

「将軍」と「大奥」の生活㉗

■正室とは不仲だったが、次々と側室を迎えた家光

【家光と大奥の主要人物と子女】

 徳川15代のうち、正室の女性(お江)から生まれた唯一の将軍が家光(いえみつ)である。元和9年(1623)8月、20歳になった家光は上洛して征夷大将軍宣下(せんげ)を受け、翌年に前関白(かんぱく)の鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の娘・孝子と結婚した。

 

 鷹司家は摂政(せっしょう)や関白を出す摂家のひとつ。家光の正室を孝子に決めたのはお江の方である。お江の死後、孝子は後ろ盾を失い、春日局に疎まれ気鬱を発症し、江戸城本丸大奥を追い出される。それ以降、孝子は「御台」と呼ばれず、中之丸(なかのまる)に住んだことから「中之丸様」と呼ばれるようになる。当然、子もできなかった。

 

 これを危惧したのが家光の乳母・春日局(かすがのつぼね/お福)である。彼女は家光の家督継承が危うくなったときに家康に直訴し、家光の将軍継承を決定づけたという功があった。そうした経緯から、お江の没後は春日局が江戸城の奥向きを取り仕切る役割を担っていたのである。

 

 家光は生来、男色の気があった。そこで、どうにか家光が気に入りそうな女性をそばに置いたという。春日局らの気苦労の末、気に入られたのが、お振(ふり/自証院/じしょういん)であった。春日局の補佐役、祖心尼(そしんに)の孫娘で、寛永14年(1637)、家光にとって初めての子である長女・千代姫(ちよひめ)を産むが、哀れにも3年後に死去した。

 

 待望の世継ぎ、家綱を産んだのがお楽(らく/宝樹院/ほうじゅいん)である。彼女は農民の子であったが、春日局が浅草観音の参詣(さんけい)から帰る途中に見かけて江戸城へ連れ帰ったと伝わる。あるとき、故郷の麦搗(むぎつ)き歌を披露していたところを通りかかった将軍家光がそれを気に入って側室にしたなどの逸話もある。

 

 家光の側室にお万(まん/永光院/えいこういん)という人物がいる。彼女は伊勢慶光院の院主となった時、挨拶に訪れ謁見した際に家光に見染められたとこれまで言われてきたが、そのような事実はなかったという説が現在は有力になっている。長生きで6代家宣の時代に死去した。

 

監修/畑尚子、文/上永哲矢

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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