絵島生島事件で引き締めを図るも、制御が難しかった大奥暮らしの「ストレス」
「将軍」と「大奥」の生活④
■絵島生島事件により大奥の法度で風紀が引き締められる

将軍と大奥の抱える世継ぎ問題
宝永3年(1706)綱吉に田植えを見せるため、それを行う見目の良い300人の公募があった。江戸城には多くの階層の女たちが集まった。『五代将軍田植慰の図』/国立国会図書館蔵
大奥が誕生した頃から、幕府は奥女中に様々な規則を課していた。外部との出入りを厳しく制限するとともに情報統制を強化したが、将軍と一体化していたことをバックに、その威光をかさに着る所行も厳に戒める。外部からの願い事を取り次ぐのを禁止したのはその象徴である。
しかし、大奥つまり奥女中たちの所業を制御することは難しかった。厳しく取り締まることで反発を招き、自分の身に禍(わざわい)が降りかかるのを恐れたからである。御年寄に嫌われると、老中でさえその地位を保てなかった以上、取り締りには限界があり、事実上制御不能となっていた。
不祥事があればそれを理由に取り締りを強化することは可能だったが、そんな機会が正徳4年(1714)に訪れる。7代家継(いえつぐ)の時代に起きた絵島生島(えじまいくしま)事件だ。御年寄の絵島と歌舞伎役者生島新五郎(いくしましんごろう)のスキャンダルを突破口に大奥の引き締めをはかる。
その勢いで大奥にメスを入れようとした将軍こそ、8代吉宗(よしむね)である。吉宗は唯一大奥に物申せる将軍の立場を活用し、取締りを強化する。享保6年に奥女中に提出させた誓詞もそのひとつだが、同年には十箇条から成る奥女中(おくじょちゅう)法度も出されている。
■書面のやり取りは祖父母、兄弟姉妹、伯父伯母、姪、子、孫に限る。宿下がりの時、親類以外と会ってはならない(第一条目)。
■宿下がりを許された場合は親や子を長局(ながつぼね)に呼んではならない(第二条目)。
■宿下がりが許されない場合は祖母、母、娘、姉妹、伯母、姪、9歳までの子、孫、兄弟、甥などの男子を長局に呼んでも良い。一泊だけ許可する(第三条目)。
■衣服・諸道具の贈り物や接待は贅沢なものではいけない(第五条目)。
■各部屋で夜更かしをしてはならない(第六条目)。
■葵の紋所が付いた道具類を貸してはいけない(第七条目)。
■長局に出入りさせる下男は2人までとし、私用で使役してはならない(第八・九条目)。
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