大奥を謎のベールで包んだ「情報統制」
「将軍」と「大奥」の生活③
通行許可証があれば大奥に出入りできた初期

現在の皇居東御苑(東京都千代田区)にある、江戸城大奥跡。緑地の中に、その地を示すプレートだけが設置されている。
閉じられた謎の空間としてのイメージに貢献した要素として、大奥に向けて出された「法度」が挙げられる。元和4年正月に制定された五箇条から成る法度がその最初だ。「五箇条の壁書」ともいうが、その内容は以下の通りである。
■普請や掃除のために大奥へ出入りする大工や人足は、警備担当の天野孫兵衛(あまのまごべえ)たち3名と一緒に入ること(第一条目)。
■奥女中の宿舎である長局より奥に男性は入らないこと(第二条目)。
■男女や身分の上下を問わず、通行許可証なしに大奥には出入りしないこと。奥女中たちは、午後6時を過ぎたら大奥の外に出ないこと(第三条目)。
■他家に奉公している女性や嫁いでいる女性が大奥に逃げ込んだ場合は、その主人から要請があれば返すこと(第四条目)。
■天野たち3名は一昼夜ごと交代で大奥の広敷に詰め、諸事管轄すること(第五条目)。
外部の者が、大奥に出入りすることに幕府が神経を尖らせている様子が窺(うかが)えるが、後年に比べれば出入りが割合自由だった様子も判明する。通行許可証があれば、大奥に入ることは可能で奥女中にしても午後6時の門限さえ守れば大奥の外に出ることは可能だったからである。
しかし、時代が下るにつれて出入りが厳しくなった結果、通行許可証の発行は停止される。幕府の許可なくして奥女中が大奥の外に出ることも一切できなくなる。
吉宗は誓詞提出により情報を統制し贅沢を引き締める
出入りが厳格化されただけではない。情報統制も強化されていく。
4代将軍家綱(いえつな)の時代にあたる寛文10年(1670)には、大奥でのことは親類縁者にも話してはいけないと奥女中に命じている。いわば守秘義務を課したわけだが、大奥で奉公する際には誓詞(せいし)の提出も義務付けられる。
つまり、その誓詞のなかで大奥でのことは他言無用と約束させたのだ。これにより、大奥は謎のヴェールに包まれた空間としての色合いを濃くしていく。
奥女中に提出させた誓詞については、享保6年(1721)4月付の六箇条が残されている。ちょうど8代将軍吉宗の時代にあたるが、その内容は以下のとおりである。
■大奥での奉公は誠意をもって務め、後ろめたいことはしない。大奥に出された法度を遵守する(第一条目)。
■幕府に対して悪事をなす相談はしない(第二条目)。
■大奥でのことは外部に漏らさない。外部からの願い事は一切取り次がない。大奥の威光を傘に、贅沢(ぜいたく)なことはしない(第三条目)。
■同僚の陰口をたたいたり、同僚たちの人間関係を裂くようなことはしない(第四条目)。
■好色なことはもちろん、宿下がりの時も物見遊山などはしない(第五条目)。
■銘々、自身の行動はできるだけ慎む。火の元には念を入れる(第六条目)。
六箇条のうち注目されるのは、外部からの願い事は一切取り次がないと誓っていた第三条目だが、実際は真逆で、その口添えに期待して金品が贈られていた。外部からの願い事を取り次いでいたのは明らかである。大奥の威光を傘に贅沢なことはしないと誓ったものの、賄賂の金品を原資に豪勢な生活を送っていたわけであり、他言無用以外は、空文化していたのが実態だった。
第四条目からは、職場も生活の場も一緒であった奥女中たちの人間関係の難しさが窺える。外に出ることが極度に制限された環境が背景にあったのは言うまでもないだろう。
第五条目からは、宿下がりの時もその行動が規制されていたことが分かる。奥女中が羽目(はめ)を外す行動をして、その行状が世間に知られることで、大奥ひいては幕府のイメージが悪くなるのを恐れたのだ。
この誓詞からは、大奥の建前とその実情のほか、幕府が外聞を非常に気にしていた様子が読み取れるのである。
監修・文/安藤優一郎