将軍の私生活を支え出世の可能性も秘めていた「小姓」の仕事
「将軍」と「大奥」の生活㉓
■将軍の24時間を裏で支えた「小姓」

勝林寺(東京都豊島区)にある田沼意次の墓。意次は小姓を振り出しに頭角をあらわし、側用人にまで昇り詰める。息子の意知も若年寄に就任したが、10代将軍徳川家治が死去すると失脚し領地も没収された。
将軍の私生活をサポートした仕事として、真っ先に思い浮かぶのは小姓であろう。将軍や大名の生活は小姓がいなければ一日も成り立たない。いや、一日が始まらない。将軍は小姓がかける「もう」という声で起きることになっているからだ。起床後、朝食をとるのだが、給仕も小姓の仕事で、入浴の時にも小姓が将軍の体を洗い、大奥へ渡らない時には、夕食後、囲碁などの相手をする。囲碁や将棋は当時の武士にとってはたしなみのひとつで、江戸幕府はこれらを保護していた。
儀式のときの配膳など雑用を行うのが「表小姓(おもてごしょう)」、かゆいところに手が届くように将軍の世話をするのが「奥小姓(おくごしょう)」であったという。
常に将軍のそばに控え、仕事とはいえ、将軍に直接触れることも多く万が一のことがあってはいけないので、家柄のしっかりした頭のよい美少年が選ばれたという。ただし、将軍の勘気に触れ、御家断絶となっては困るので、将来家を継ぐ長男ではなく、次男以下が召し出されることが多かったとされている。
だが、小姓として気に入られ、幕閣にまで上り詰めた堀田正盛(ほったまさもり)などの例もあるようにうまく務めることが出世に繋がることがあった。緊張を強いられる仕事であったため、隔日勤務で将軍の前でお世話をする際には2時間で交代したという。
こうした小姓の仕事を補佐する奥坊主がいた。茶室を管理し、将軍や江戸城に上がる大名に茶を供しており、そのため付け届けが多かった。彼らは、坊主という名前の通り剃髪(ていはつ)している。出家し世俗と離れた僧に似せることで、身分が低くとも高貴な人に近づけるようになるのだ。彼らは幕閣から公家、大名や役人から上申する書類を取り次ぐ同朋の配下に属していた。やはり付け届けが多かったという。ちなみに同朋衆が給仕することもあり、将軍が外出する時にはお供した。
また、小姓ほど近くではないにしろ、将軍のそばにいて世話をする役目があった。これを小納戸といい、食事の配膳や調髪、入浴の際の着替えの手配などを担当。小姓の合図で滞りなく作業を行わなければならず、気疲れする仕事であったので、小姓と同じように一日置きの勤務であった。採用する時には吹上の庭を歩いているところを将軍が隙見(すきみ)して決めたという。
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