諸葛孔明のライバルとして有名な周瑜は、一度も「美周郎」とは呼ばれていなかった?
ここからはじめる! 三国志入門 第71回
では、周瑜を容姿端麗に描いたのは誰か。これほど広まっている「美周郎」の名付け親は誰なのか。
それは吉川英治(よしかわえいじ)である。吉川は自著『三国志』(1939~1943年)の中で「姿風秀麗、面は美玉のごとく……」と書いたほか「呉の人はこの年少紅顔の将軍を、軍中の美周郎と呼んだり、周郎周郎と持てはやしたりしたものだった。」と記している。
言葉とは面白い。正史や演義にあった「周郎」に「美」の一字を付け加えただけで、かくも受け取り方が変化してしまう。しかも「美周郎」の呼び方は、作中にその1回しか登場しないのだ。当の吉川も、自分のアレンジが後世に多大な影響を与えようとは思わなかったのではないか。
吉川の原作を漫画化した、横山光輝(よこやまみつてる)『三国志』(1971~1987年)では、周瑜は身なりがよく立派な風采に描かれているが、イケメン度合いはそうでもない。ドジョウ髭がトレードマークのためか、曹操や諸葛亮(しょかつりょう)には及ばないようにも感じる。
むしろ、ビジュアルで周瑜のイメージを決定づけたのはNHK『人形劇 三国志』(1982~1984年)の生みの親・川本喜八郎(かわもときはちろう)であろう。今回、冒頭の画像でも紹介しているが、色白に切れ長の目、勇ましくも神経質そうな面持ちが「演義」の周瑜像に、まさにピッタリはまっていた。
これは趙雲(ちょううん)も同様で、それまで肉づきの良い猛将として描かれがちだった彼のイメージを、変える契機にもなったように思う。
もっとも、中国においても中華民国時代の連環画(イラスト)では髭のない美男子に描かれ、京劇でも周瑜役は美形の俳優が演じるのが定番だ。そうした本場の事情は、中国事情に詳しい吉川英治と川本喜八郎も見聞し、理解していたのかもしれない。
ともあれ2人の巨匠の表現が、その後に日本で生み出されたゲームや漫画に相当な影響を及ぼしたことは間違いない。まさに「美周郎」は、それを象徴する表現といえよう。
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